見出し画像

【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #16


【総合目次】

← #15


<前回>

 レイチェルはかぎ爪を振り上げた。その腕には炎が巻き付いていた。戦乙女の口付けが、いつかのように癒しの光と混ざり合い、彼女を守っていた。その眩さに灼かれ、ヴァルラムが目を細めた。一瞬の怯みだった。

 ふたりが交錯した。

 妖刀は、狼の腹を裂いていた。臓物がこぼれそうなほどに深い傷。しかし狼を殺すにはたりない。

 そして狼の燃える爪は……、

 男の心臓を掴んでいた。

 レイチェルは心臓を握りつぶした。

 両者は同時に着地した。

 傷をおさえてうずくまるレイチェルの背後、ヴァルラムは立ち上がり、天を仰いだ。そしてゆっくりと、背中から倒れていった。


「……なんだ。まだ死なんのか」

 ヴァルラムは己自身に呆れた。心臓を抜かれているのに即死できていない。若いころに鍛えたツケが回ってきたようだ。

 だが、悪くない。すべてが流れ出ていく感覚がある。あのときとは違う空虚が胸に満ちている。これを堪能して逝けるなら、己のしつこさに感謝しても良いだろう。

(……ああ。でもお前は、それを許しはしないよな)

 足音が近づいてくる。血と魂が流れ切るより早く、その手で死を告げるために。長き宿願を果たすために。

 男が視界に入ってきた。彼は紫色の眼でヴァルラムを見下ろした。

「やあ。ようやくやったな、俺よ」

「……」

 彼は応えない。ヴァルラムは血を吐きながら笑う。

「どうした。俺が死ぬまえに殺したいのだろう。さっさと終わらせてくれ。俺の罪を終わらせて、俺の復讐を成し遂げるがいい」

「ああ、殺す。でも終わりなんかじゃない」

 彼は……クリストファーはいった。

「お前なんか通過点にすぎない。お前が死んだってお前の蒔いた罪は消えないし、僕はお前じゃない。僕の復讐は、まだ終わらないんだ」

 ヴァルラムは、不可思議な目でクリストファーを見上げた。

 虚ろな胸を、なにかがちくりと焦がした。これまで見落としてきたもの。かつて彼の胸に灯っていたはずのもの。積み上げてきた骸の下でずっと燻り続けていたもの。それが今になって、ちいさな火をふたたび熾そうとしていた。なくした心臓が高く鳴った気がした。

 その火の名前を思い出そうとする、そのまえに、ヴァルラムの世界は終わった。バルドが怒り任せに足を踏み下ろし、彼の顔面を砕いていた。

 バルドは周到に踏みにじり、頭蓋の中身を灰色の土にまぜた。

「……申し訳ありません。勝手なことを」

「いや、いい」

 クリストファーは首を振った。

 これで、《ベルフェゴルの魔宮》は壊滅した。しかしクリストファーは勝ち鬨をあげる気にはなれなかった。あまりにも多くの血が流れすぎた。三百人いたはずの仲間たちは、どれだけ生き残ってくれただろう。

 心の重さに落ちてしまいそうな目線を、強いて振り上げる。いまは生きている者の治療が優先だ。

「みんな、負傷者の確認を! 各自もち寄った霊薬ポーションを惜しまず使え! 傷の軽い者はできるだけ堪えて、重傷者に譲ってくれ!」

 呼びかけるまでもなく、みな既にそうしていた。老人が己の傷もかまわずに、地面に寝転がった少女術師に駆け寄る。風の騎士は倒れた愛馬に必死に呼びかけ、酔霊術師の男は自分の霊薬を馬の傷にかけている。兵士たちは死を間近とした者へ躊躇うことなく霊薬を差し出し、冷静な者は死者のふところから無事な瓶を拝借する、罪の意識を感じながら。

 クリストファーは友のもとに駆け寄った。

 レイチェルは、胎児のような姿勢で倒れていた。全身を斬られ、血にまみれた半裸をさらしている。地面に血が広がっていく様子がはっきり見えた。傷が塞がっていない。

「レイチェル! しっかりして!」

 クリスは座り、仰向けにさせた。彼女はうっすらと目を開けていた。意識はある。だが髪が金糸雀色にもどっていた。白狼の祈りがとけ、自己治癒の奇跡が失われているのだ。

 クリスは霊薬の瓶をとりだし、口に含ませる。うまく飲み下せていない。自然に下るよう姿勢をととのえながら、傷の重い腹部に直接ふりかけた。効率は悪いが、嚥下を待ってはいられない。それほど出血がひどかった。

「バルド! 君の……」

「どうぞ」

 言い終えるまえに、彼は霊薬を差し出してくれた。クリスはそれも腹部にふりかけた。

「私たちのものも使ってくれ。肉体的な負傷は軽い」

 アルティナ、ミンミ、フィリップも来てくれた。だがクリスは躊躇った。アルティナとミンミはともかく、顔半分を爛れさせたフィリップの傷が軽いとは思えなかったからだ。

「ありがとう。でもフィリップ、君は自分のために使うべきじゃ……」

「このぐらい平気です!」フィリップは笑った。こんな状態でも、彼の声は大きいままだった。「というより、手遅れですな! 私の顔の爛れはもう固定化してしまっています! 霊薬程度では戻せますまい!」

「そう……、なのか」

「会長が自責の念を感じることはありません! それより、この爛れが致命傷にならなかったのは、レイチェルの癒しの術のおかげです! 使うなら彼女のために!」

 隣でミンミがこくこくと頷いている。クリスはもういちど礼を述べ、素直に受け取った。

 他にも余った薬をまわしてくれた者たちのおかげもあり、なんとか出血を抑えることはできた。あとは布をあてるなど通常の対処でもどうにかなるだろう。朦朧としていた意識も安定したようで、彼女の眼がはっきりとクリスを捉えた。

「みな、さん……ありがとう……もう、大丈夫です……」

「本当に大丈夫なのか?」クリスがきいた。

「はい。眠気より、痛みを感じるくらいには、なれました」

 クリスは安堵の息を吐いた。霊力を急激に消耗した体は、生きようとする力を失い、強い眠気に襲われる。その状態を脱したならば、上向きの生命力をとりもどした証拠だ。

「よかっ……たぁぁ……」

 握りこぶしで見守っていたアルティナが、へなへなと座りこんだ。

「き、君はもっと自分を大事にしてくれ。傷は治せても魂は有限なんだぞ。いや、そもそも私が不甲斐ないのがいちばん悪いのだが……」

「やると決めたから、やっただけです。決めたのは私です。アルティナさんのせいじゃ、ありませんよ」

「まあ、とにかくよかった」クリスは脱いだ上着で彼女の肌をかくす。「君はよくやってくれた。あとのことは任せてくれ。薬、もっとほしい?」

「薬より、お酒が飲みたいです」

「痛み止め?」

「いえ、飲みたいだけ」

「君ね……」

 いいつつも、アッペルバリに視線をむける。起き上がった愛馬にすがりつくジルケの傍にいた彼は、苦笑いで返した。

「ンな目で見られてもないっすよ。俺も頭が痛くなってきて困ってるンでさぁ」

「だ、そうだ。我慢して」

「うーん、残念です」目尻がさがった。本気でいっていたらしい。

「ここから出たら奢ってあげるから。みんなでお祝いしよう」

「本当ですか? うふふ。たのしみ」

 レイチェルは微笑んだ。

 そのとき、周囲の気配に変化が生じたのを、クリスは感じた。

 黒い木々が煙となり、闇へとけていく。灰色の地面も。ミディアンの森そのものが消滅しようとしているのだ。不安を覚えた者たちがざわめきを起こした。

「大丈夫だ。みんな、落ち着いてくれ」アルティナが声をあげた。「神域を生み出した神霊、および管理者が死亡した場合、神域は消える。生者はエルガルディアへ自動的に導かれる。みんな元の陣地付近に放り出されると思うが、念のため互いに離れないでおくように」

「生者は、か」

 死者の骸は連れていけないということだ。仕方ないとはいえ、やるせなかった。

 アルティナはその気持ちを察してくれたようだ。遺品を持ち帰りたければ手早く回収するようにと呼びかけてくれた。視界の端で、蒼白な顔の少女術師マッハが槍をひろい、ぎゅっと抱き締めていた。

 クリスはふたたびレイチェルを見下ろす。

「……帰ろう。レイチェル」

 膝の上で、レイチェルは頷いた。

 煙が濃さを増す。視界のほとんどを覆い尽くす。地面がくずれ  謾ッ縺医r螟ア縺」縺滉ス薙′髣�↓謾セ繧雁�縺輔l繧九� 浮遊。 蜷ヲ縲� 落下? 驥榊鴨繧貞ソ倥l縺� 闇のなか 繧貞スキ蠕ィ縺�ら岼縺ョ縺セ縺医r縲� 夢世をわたる 鮟偵>魑・縺碁」帷ソ斐☆繧九ゅ≠縺ゅ√h縺城�大シオ縺」縺溘o縺ュ縲√o縺溘@縺ョ諢帙@縺�ュ蝉セ帙◆縺。縲� 黒い鳥 縺悟宦縺�◆縲ゅ◎縺励※ 導いて 縺上l縺溘ょヵ縺溘■縺ョ謨��縲ゅお繝ォ繧ャ繝ォ繝�ぅ繧「縲ょスシ螂ウ縺ョ蜑オ縺」縺ヲ縺上l縺滉ク也阜縲�


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 幌馬車を降りたクリスに続いて、レイチェルは久しぶりにリディアの目抜き通りの石畳を踏んだ。

「東門前で待機していてくれ。すぐに追いつく」そういって馬車を行かせ、クリスはレイチェルに向きなおる。「すこし一緒に歩こうか」

「はい。それにしても寒いですねえ。手、つなぎましょうか?」

「いや、いいよ」

「恥ずかしいんです? 私は平気ですよぉ。あなたにはハダカ見られちゃいましたしね」

「からかうなよ。君、ほんとリアさんに似てきたよね」

 ふたりの笑い声が、白い靄となって冬の空気をあたためた。

 曇天の昼下がり、リディアの人通りは疎らだ。いつもは割れた鐘のような客寄せの大合唱も今日はおとなしい。交易都市とはいえ、ときにはこういう日もある。天使が買い物に来ているのかもしれない。

「今回の件では、本当に世話をかけた」肩を並べて歩きながら、クリスはいった。「僕らの力だけじゃ、きっと勝てなかっただろう。アルティナさんを押し切って強行したくせに、情けない限りだ。君にばかり凭れかかってしまって」

「もういいじゃないですか、それは」

 道中でさんざん聞いた台詞だ。みんなのまえではメイウッド商会の長として振る舞わなければならない彼の胸の裡を、レイチェルは誰にも見られない頃合いをはかり、吐き出させてきた。己の無力への悔恨、傷ついた者や散っていった者への懺悔。受け止められるのは、友人であり修道女である自分だけだろうと思った。新調した修道服の胸のところに、彼の涙のぬくもりが残っている気がする。

「残酷なようですけど、あなたは死んでしまった方々への責任をすべて引き受けなければいけない立場です。だからこそ、前を向いていなければならないはずです。たとえ言葉だけだとしても。そうするうちに、本当に前に進めますから」

「うん、わかってる。弱音を吐くのはこれきりにするよ。……それらしいこといえるんだね、君も」

「失礼な! でも、その調子ですよ。もっと楽しいお喋りをしましょう」

「そうだね。しばらく会えなくなるんだし」

 《ユニコーン騎士団》はしばしの間、活動を休止する。《操魔の呪法》を広めていた元凶を絶つことには成功した。走り続けてきた脚を休めるにはよい時機だろうと、彼はそう決断したのだ。

 そもそも、今回の戦闘で受けた打撃はあまりにも大きい。体制を立て直す必要がある。そのために奔走するのはクリスの役目だ。このままリディアを離れ、あちこちで商売に専念するのだという。寂しくなる。

「これから君はどうするの? この街で冒険者稼業?」

「リディアにはいると思いますけど……」レイチェルは上げた顎に指をあてる。「あなたからたっぷりお小遣いもらっちゃいましたし、働かなくてもいいんですよね。しばらくは《緋色の牝鹿亭》で、ぐうたら酒浴び生活だと思います」

「まだ飲むの? 宴であれだけ飲んだのに。アッペルバリに音をあげさせる人なんて初めて見たよ」

「うふふ、楽しかったですねえ」

 リディアまでに別れてきた仲間たち。元気にしているだろうか。別れてまだ数日も経っていないのに、ひどく懐かしく思えた。

「まあ、『頑張った後は好きなことしてぐっすり休みなさい』と、私の神様も仰ってますから。大目に見てください」

「……うん、そうだね」クリスは曖昧な笑みで頷く。「飲み過ぎて体を壊さないようにだけ気を付けてくれよ」

「大丈夫ですよう。私も立派なおとなです。母さんに似てきたんでしょう?」

「だから心配なんだよ」

 レイチェルは声をあげて笑った。閉じたはずの傷がひらきそうだった。

 たのしい時間は過ぎる。道を歩けばいずれ分かれ道に行き当たる。他愛もない話を咲かせていたふたりは、いつしか《緋色の牝鹿亭》方面へと逸れる道のまえにきていた。並べていた肩の向きをかえ、クリスは正面に立った。

「じゃあ、このあたりで」

「ええ」

「元気でいてくれよ。それだけが僕の祈りだ」

「私もです。あ、いまの嘘です。私はもっとたくさん祈っちゃいますよ。健康とか、旅の無事とか、商売繁盛とか……」

「あはは。ありがとう。君の神様ならきっと叶えてくれるね」

 笑いがとぎれた。ふたりは穏やかに見つめ合った。絶ち難い沈黙がそこにあった。

 クリスが手を差し出した。

「やっぱり、繋いでくれる?」

「もちろんです。寒いですものね」

 レイチェルは両手で包んだ。

 細長く、肉付きの薄い手。男性としては、か弱い部類に入るだろう。でもレイチェルは知っている。初めて彼と出会った日、涙をうかべて咳き込んでいた少年の手が、どれだけ小さかったのかを覚えている。

 いまはもう、両手じゃないと包めない。

 でも、ぬくもりだけは。

 あの頃よりも冷たかった。

 冬の空気に奪われてしまったのだ。だから当たり前だ。レイチェルはそう思おうとした。

「……ありがとう。もう大丈夫」

 クリスが手を引いた。

「それじゃあ。元気でね」

「はい。また呼んでくださいね」

 彼は手を振った。背を向けて、目抜き通りを歩きだす。

 レイチェルは立ち竦んでいた。

 なにか、いいようのない、くすぐったさのような感覚が、胸の内側から背中をなでた。

 見送ってはいけない。遠ざかる友になにか言葉をかけなければならない。そんな予感に心がざわついた。どうして彼は、別れの言葉に「また」を使わなかったのだろう? どうして彼は、最後の言葉に手振りだけを返したのだろう……?

 気がつくと、レイチェルは声を上げていた。

「クリス!」

 彼はぴたりと立ち止まった。

 レイチェルは目を泳がせた。浮かんできた疑問を言葉にするべきなのに、なぜかできなかった。代わりに口をついて出たのは、自分でもどうしてと思うような、関係のない言葉だった。

「あなたは、魔霊術師……なんですよね」

 振り返らない彼の背中が、ちいさく跳ねたのが見えた。

 レイチェルは目を逸らした。きっと傷つけてしまった。もうやめるべきだ。これ以上は、もう……。

「その、私……、ずっと知ってました。あなたの苦しみが、体ではなく、魂の性質に由来しているということ。それを抑制するすべを学ぶために、イラの村にきたんだということ。それは、ただそれだけのことだと思ってましたし、いまでもそう思います」

 彼は応えない。じっと動かずにいる。

「それに、その力で魔物や魔影の邪魔をして、私を助けてくれましたよね。たとえ呪われた力だとしても、あなたはそれを正しく使える人です。ミンミさんもそう。あの子の匂いは優しくて、人を傷つけるために魔物をあやつる魔教徒たちの臭いとは、ぜんぜん違っていました。……なのに」

 レイチェルは、無意識に組んでいた手を握りしめた。

 体が震える。寒いのではない。怖かった。これから聞くことへの返事を聞くのが、とても怖い。けれど、いちど堰を切った言葉は止まることなく、容赦なく彼女を導く。

 終わりの予感がするほうへ。

「ねえ、クリス。どうしてあなたから、魔教徒たちと同じ臭いがするの?」




【続く】

【総合目次】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?