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【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #15


【総合目次】

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<前回>

 操られた女性兵士の体は意志とは無関係に動き、槍の狙いを変えた。ヴァルラムからジルケに。

 女性兵士の瞳が快感と絶望とに揺らいだ。

 彼女の唇が、わななくようになにかを紡いだ。誰かの名前のようだった。それが彼女に抗う力を与えたか、彼女は槍をどこにも投げず、己の喉に突き刺した。

「なんと」

 ヴァルラムは目を見張った。

 魂の尊厳を守り抜いた女が倒れゆく姿に、彼は釘付けとなった。

 故に、ジルケの動きに気付くのが、一瞬遅れた。彼女は愛馬が倒れるまで集めてくれた風を束ね、風の刃を放っていた。

 防御に回せる魔影はない。だが躱せる。彼は体を動かそうとして……その膝が、がくりと崩れた。

(酩酊だと? この俺が?)

 酒の強さには自信がある。ヴァルラムは瞬時に悟った。レムを嘔吐させた酔霊術師の男。奴がどこかに……。

 風の刃がヴァルラムの左腕を断ち斬った。


 《操魔の呪法》の目指すところは魔物を意のままに操る点にあるが、原理的には魔の霊素に干渉することでそれを実現している。ゆえに、魔影にも効果があった。

 クリストファーは瞳を紫色に染め、精神を集中させていた。彼の本職は商人であって、術師ではない。魔物を操るにも下準備を必要とするていどの腕だ。それがない状況では、動きを止めるくらいが精一杯。まして人間の分霊である魔影相手ではそれすら無理だ。しかし、バルドにとっては十分な支援であった。

 バルドは突き出された魔影のカタナを手で握り、止めていた。血が滴り落ちていた。魔影がほんの少し腕を引けば、彼の指はするりと斬り落とされていたはずである。だがクリストファーがそれを阻害していた。だからバルドは、もう片方の腕を全力で振り上げることができた。

「ぬううん!」

 雄叫びとともに振り抜かれた腕に頭を砕かれ、魔影は雲散霧消した。

 クリストファーは緊張をゆるめた。強張っていた体がふらりと揺れた。

「へい、きか。バルド」

「俺……! 私は、大丈夫です!」バルドは獣のように荒げた息をととのえながら、振り返らずに応えた。「会長こそ、ご無理を」

「いまはいい。そんなことより奴は……!」

 バルドの背中越し、怨敵に意識を向ける。

 ヴァルラムは、項垂れていた。少し離れたところに、斬り落とされた彼の腕が転がっていた。血がどくどくと流れ、灰色の地面が紅く染まる。

 胸の傷。失った腕。ヴァルラムとて人間だ。もはや立っているのも辛いはず。

 だがヴァルラムはゆっくりと顔をあげ……燦燦と輝くような笑みを見せた。

「やってくれた。やってくれたな、《ユニコーン騎士団》! 俺はとても楽しい! 楽しすぎて眩暈がするぞ!」

 虚勢や偽りの気配はない。本心からの言葉だ。死を目前にしているとは思えぬ異様な振る舞いに、誰もが怯んだ。

 ヴァルラムは転がる自分の腕にムラマサを突き刺した。

「こんなに楽しい時間、すぐには終わらせられないな。もっとだ。もっともっと楽しませてくれ」

 ムラマサを振り上げ、腕が宙を飛んだ。

 切断面から血がまき散らされ、煙と混ざり合った。紅い煙はふたたび魔影と化した。その数……十二体。

「馬鹿な」

 クリストファーは呻いた。この場にいるすべての者が同じだった。

 六体の魔影を片付けるのにさえ、これだけの犠牲を払ったというのに。奴は着実に死にかけているというのに。血を流すたび、ヴァルラムの魂から錆が落ち、魔剣士と呼ばれたころの輝きを取り戻しているようだった。

 魔影たちが動き始めた。三方向、均等に四体ずつ。

 バルドは筋肉を膨張させる。クリストファーは魔霊を練り上げる。さっきの二倍の数が来るならば、二倍の苦労をすれば良い。それだけだ。ただそれだけのこと……

「いや」

 クリストファーの口から、苦笑がこぼれた。

「すまない。君に少し任せるよ」

「うん。任せて」

 互いにほんの小さな呟きだった。それでも聞き逃しはしなかった。

 クリストファーの背後から、風よりも速く駆けてきた白い光が飛び上がり、彼の頭上を越えた。

 それは空中で両手の爪を振り上げた。叩きつけるようにして、二体の魔影を頭から引き裂いた。魔影は雲散霧消した。

 ヴァルラムは凄絶な笑みで彼女を見た。

「来たか。狼」

「ああ。来たよ」

 獣のような前傾姿勢、両手の爪をかまえながら、レイチェルは睨み返す。

「部下の女は喰い殺した。お前も殺す。そう決めてる」

「そんなことを言わないでくれ。楽しすぎて逝ってしまいそうだ」

 レイチェルは砂を蹴った。

 彼女はただ、まっすぐに前へ駆けた。目指す先は殺すべきヴァルラム本体のみ。この殺意がみんなを守ることに繋がると、彼女は本能で察していた。

 ヴァルラムは他に向けていた魔影をすべて呼び戻した。

 左方向から斬撃。レイチェルは身を低くして躱す。その高さに右方向からも斬撃。さらに身を低くする。地面すれすれまで顎を近づけたところで、すくい上げるように右の爪を振り上げる。左の魔影の首を狩った。その腕を引いて肘をぶつけ、右の魔影の顔面を砕いた。二体の魔影は雲散霧消した。

 剣戟はきわめて速い。だが見える。誰かが奴らの……魔霊の塊である分身の動きを阻害してくれているおかげだ。それが誰なのかは、あえて考えなかった。

 次の斬撃がくる。ふたたび左右からの斬り下ろし。さらに正面からの刺突。

 レイチェルは両手を掲げ、左右の斬撃を掴んだ。正面からの刺突は歯で噛んで止めた。鋭い牙がカタナを貫き、滑り止めの役目を果たしていた。刹那の遅れが致命となる防御方法。レイチェルはわずかな躊躇もしなかった。

 三体の魔影は、そのまま追撃することもできたはずだった。だが右の魔影は《七代目のチェーンウィップ》に、左の魔影はジルケの槍に頭を砕かれた。正面の魔影はカタナを押し込もうとする寸前、胸にレイチェルの鋭い蹴りを入れられて、そこに穴を空けた。三体とも雲散霧消した。

 次の波がくる。今度は四体! だがそのうち一体は、雄叫びをあげながら突進してきたバルドに吹っ飛ばされた。白狼化したレイチェルにすら出せない速度、膨れ上がった筋肉。バルドの姿が異様だ。だが気にしている余裕はない。

 これまでのように、間髪入れず斬撃が……こない。魔影はすこし距離をおき、膝を沈めていた。防御するタイミングをずらされた。

 魔影が体を重力にあずけ、前にたおす。次の瞬間、その姿がかき消え、レイチェルの背後にあらわれた。縮地。その背後に構えていた魔影も同様。これまでで最速の二連撃。

 レイチェルは、胸で受けた。クロス状に裂け、破れた修道服から乳房がまろび出た。噴き出した血が、雪のように白い肌を紅く染める。

 レイチェルは歯を食いしばり、戦意をゆるめなかった。三体目は正面にいない。上空だ。噴き出した血に隠れている。自由落下を越える速度で、兜割りを叩きつけてくる!

 カタナが彼女の頭を裂く寸前、それは止まった。レイチェルの白刃どりだった。体を横にたおし、魔影を地にたたきつける。その頭を踏み砕く。雲散霧消。

 まだだ。胸を裂いた二体が後方に。だが、レイチェルは振り返らずに済んだ。

 蹄の音がひびいた。一般兵の主を喪ったばかりの黒馬の背に、顔を爛れさせたフィリップと、ミンミが乗っていた。

「やれ、ミンミ!」

「やるッ!」

 血の気の失せた顔で、ミンミは叫ぶ。掲げた両手の狭間で、霊力の流れが渦を巻いた。周囲の魔霊を根こそぎ吸いとる《吸魔》の術。《魔影分身》の天敵。背後からレイチェルを斬ろうとしていた二体の魔影が、ほどけて消えた。

 残る魔影は三体。最後までヴァルラムの周りに残っていたそいつらも、姿を消した。もはや本体への道をはばむものはない。

 しかし、レイチェルは突っ込まなかった。

 ヴァルラムが……本体自身が、ムラマサを鞘に納め、腰を落としている。なにかとてつもなく厭な予感がした。本能がそれを察した。

 身を竦めたレイチェルの横を、槍を構えた青年が突撃していった。ミンミの声がそれを追いかけた。

「ナンパ野郎、待って! なんかまずい!」

「いまならやれるッ! みんなの仇だッ! 俺がブッ殺してやるッ!」

 憎悪を剥き出しにした青年は止まらなかった。レイチェルの手は間に合わなかった。「だめ」と叫ぼうとした彼女の代わりに、ウィップが声をあげた。

「いかん、突っ込むな! 魔影は消えたんじゃない、奴が戻したんじゃッ! 《魔影斬分身》がく……」

「もう遅い」

 ヴァルラムがそう零した。

 レイチェルは反射的に後ろへ跳んだ。

 妖刀が抜き放たれる。紅い軌跡が空を斬る。

 斬。斬斬斬。斬斬斬斬斬。真紅の刃が咲き乱れた。本体の放つ一閃と変わらぬ切れ味の斬撃が、角度を変えてあちこちに発生している。斬撃の瞬間のみを分身させ、離れた場所へ同時多発的に発生させる魔剣士の奥義、《魔影斬分身》の術!

 全身から血が弾けた。間合いをとったレイチェルでさえも。傷があさく済んだのは幸運に過ぎない。退避が一秒でも遅れたら間違いなく細切れになっていた。ならば突撃していったあの青年は……!

「クッ……ソオオオアアァァァァッ!!」

 青年は全身を切り刻まれていた。それでも突撃をやめなかった。敵の喉元に突き刺さるまで、槍の穂先を下げることは決してしない。そんな彼の意志を嘲笑うかのように、ヴァルラムはふたたびカタナを納め、第二の剣閃をはなつ。

 斬斬斬斬斬。斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬!「アアアアア!!」斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬「アアァァァ」斬斬斬斬斬!斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬「ァァァ」斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬、斬、斬。紅い嵐がやんだとき、青年の姿はなく、塵のような血と肉が宙を舞っていた。ヴァルラムは胸をひろげ、慈雨のようにそれを浴びた。

「ははは。最高だな」

 ヴァルラムは恍惚としていた。レイチェルは見ていることしかできなかった。

 斬斬斬斬斬斬斬。また紅い嵐が吹き荒れる。斬分身の顕現はほんの一瞬であり、操魔や吸魔の術では間に合わない。斬斬斬斬斬斬斬斬斬。斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬。レイチェルたちはさらに後退した。奴の間合いは斬斬斬斬斬斬斬斬斬どんどん広がっている。このままでは斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬いずれ飲み込まれ斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬!斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬!

 紅い斬撃が視界を埋め尽くす。レイチェルの逃げる速度を追い越していく。目にうつる紅色が魔影なのか、誰かの血なのか、それさえも分からない。やがて彼女のすべてが紅く染まろうとしたとき、その声は守るように轟いた。

「《戦乙女よ! この者に烈炎たる抱擁を!!》」

 閃光がほとばしった。鮮血の紅を、空を焼く朝陽のような炎の荒波が、ひとつ残らず抱き締めていった。

 レイチェルは後ろを一瞥した。

 残された霊力のすべてを放出したアルティナが、剣を杖に跪いていた。

 女騎士は頷いた。

 レイチェルは炎の中へ飛び込んだ。

 斬撃の嵐はやんだ。だが奴のプレッシャーは消えていない。生きている。

 炎の残滓がおどるなか、長髪の男の影がゆらいだ。

 達人のはなつ一閃は空を裂き、真空をつくりだすという。奴は斬分身を自分の周囲に集中させ、真空の壁をきずき、炎を防いだ。そういうことだ。

 レイチェルは跳びかかった。

 男の影が体をねじる。カタナは抜き身だ。これまでの様子を見るに、斬分身の発動にはカタナを一定時間納刀している必要がある。くるのは直接攻撃。ならば対処可能だ。

 カタナが振り抜かれ、最大速度の斬撃と化す、それよりも速く、レイチェルの爪牙は男の影を切り裂いた。

 影は雲散霧消した。

 レイチェルは目を見開く。ヴァルラムではない。通常の《魔影分身》。

『『『『『楽しい時間も終わりだな、けだものよ。名残惜しいが』』』』』

 ヴァルラムの声が重なっている。

 周囲に揺らぐ影は五つ。腕は全員欠けている。どれかひとつが本物か。あるいはすべて分身か。どっちであろうと、やるしかない。

『『『『『さあ、決めようか。どちらが死すべき罪人なのかを』』』』』

「必要ない」レイチェルはいった。「私はもう決めてる」

 五つの影がカタナを構えた。

 レイチェルは身を屈めたまま、すぐには動かなかった。影を全滅させるには時間が足りない。本物の臭いを嗅ぎ分ける必要がある。できれば二択。だから彼女は、それを待った。

 まず、ひとつ。《七代目のチェーンウィップ》が魔影の手首に巻きついた。鎖鞭は帯電していた。少女術師のサンダー・エンハンスは魔影の全身を焼き焦がし、雲散霧消させた。これで四択。

 次に、バルドの突進が炎をかきわけ、魔影ひとつに激突した。三択。そう思った瞬間に別の魔影の頭が弾けた。クリスの弾丸だった。これで二択! レイチェルは灼けた空気を鼻に吸いこみ、邪悪な臭いをさぐる!

 左右に分かれた影がカタナを振り下ろす。ヴァルラムの《魔影分身》は、魔霊と、煙と、奴の血とでその身を成している。戦禍の臭いだ。それが濃いのは右の影……!

(ちがう)

 レイチェルは心のなかで首を振った。

 臭いの濃さはどうにでもできる。本体はあの青年の血肉を浴びた。ヴァルラムの重く沈むようなそれとはまったく異なる血の臭い。さぐるべきはそれだ。そしてその臭いは左右の影どちらにもない! 両者とも魔影!

 魔影が神速の斬撃をはなった。

 逃げ場のない時間差攻撃。それが完成する前に、レイチェルは跳び上がっていた。炎よりも高く、朽ちた木々よりも高く。

 ヴァルラムはそこにいた。

 片腕で妖刀をかかげ、いまにも振り下ろそうとしていた。

 レイチェルはかぎ爪を振り上げた。その腕には炎が巻き付いていた。戦乙女の口付けが、いつかのように癒しの光と混ざり合い、彼女を守っていた。その眩さに灼かれ、ヴァルラムが目を細めた。一瞬の怯みだった。

 ふたりが交錯した。

 妖刀は、狼の腹を裂いていた。臓物がこぼれそうなほどに深い傷。しかし狼を殺すにはたりない。

 そして狼の燃える爪は……、

 男の心臓を掴んでいた。

 レイチェルは心臓を握りつぶした。

 両者は同時に着地した。

 傷をおさえてうずくまるレイチェルの背後、ヴァルラムは立ち上がり、天を仰いだ。そしてゆっくりと、背中から倒れていった。




【続く】

【総合目次】


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