![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/81636416/rectangle_large_type_2_0b41fe669474f0f653ce41954aa802b8.jpeg?width=1200)
【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #30
ミーティス村の広場に渦巻く喧噪は、少なくともその総量において、断食節前の祭りに匹敵するものだった。ただし、喜びの声は不安の声に、来客を歓迎する言葉は招かれざる来客を拒む言葉に、神の恵みへの感謝の祈りは神に許しを乞う祈りに、それぞれ変わっていた。
人々はみな一様に、理不尽な運命に対し、呪詛の言葉を投げかけた。その一方、心の内では、これは自分たちの罪を罰するために訪れた事象ではないのかと、後ろめたく思う者も少なからずいた。群衆から離れた場所で己の子を慰撫する母親も、そのひとりであった。
「おかあさん……」
「大丈夫、大丈夫よ。これくらいのこと、お母さんはずっと乗り越えてきたんだからね」
子に語りかける言葉は、同時に己へ言い聞かせる言葉でもあった。二十年前に霧の災禍で家族をうしない、十年前に人間同士の争いで定住の地をうしない、五年前に流行り病で夫をうしなった。それでも自分は生きている。だから今度も大丈夫。大丈夫のはずだ……。
母親の心はたしかに気丈であった。しかし、続く息子の言葉は、そんな彼女を打ちのめした。
「おかあさん、ぼくもおねえちゃんみたいになっちゃうの? わるいものを食べたから?」
「……ッ」
母親は答えられなかった。
断続的に彼女を襲う不幸のうち、直近に訪れたものは、あの断食節前の祭りの日。娘が人ならざる姿となって死んだことだった。
五年前の夫の死を家族が追わずに済んだのは、ミルコ・カンディアーニのおかげだった。丸々と肥った温和な司教は、彼女たちに必要なものをすべて与えてくれた。痩せ細った子供たちに食料を。夫を亡くした妻に慰霊の祈りを。そして家族全員にミーティスという住処を。
家族はカンディアーニに無尽の感謝を捧げた。とりわけ娘は光珠派に仕える道をえらび、カンディアーニの教会で働くようになった。あの日も村の外から訪れる客の帳簿係を務めていた。
けれどあの子は……あの子はあの日、醜き豚頭の魔人となってしまった。
自分に健常な目がついていることをあれほどまでに呪ったことは、これまでの人生で一度もない。
彼女が娘の姿を確認したのは、すでに死体となったあとだった。それはせめてもの救いだったかもしれない。誰かが娘を殺したのだ。娘がほんとうの魔物になってしまう前に、苦しまないよう、一瞬で。
その誰かのことを感謝すべきか。怨むべきか。未だに心は決まっていない。
それは事の原因であるカンディアーニに対しても同じだった。たしかに彼は罪人だが、自分たち家族を救ってくれたのも、否定しようもなく彼なのである。
何より、知る知らないに関わらず、自分たちは罪深き肉を喰らったのは事実なのだ。神珠教団から派遣されてきた神官たちによる『浄化』を受けてもその事実まで消せはしない。
ならば自分たちにカンディアーニを呪う資格があるのだろうか。
そういった後ろめたさが、このミーティスに住まう者たちの心の底に、ずっと澱み続けてきたのである。
カンディアーニの件に限らない。ミーティスと名を変える前からこの地に住み、滅ぼされた人々。我々の幸福は彼らから収奪したものではないのか?
ここ数年、みずから増やした酒量によって自罰的なまでに肝臓を痛めている杣人たち。彼らは白き森の主である白狼に噛み砕かれる夢をよく見るという。杣人が精霊の復讐を怖れるのは、木を伐ったのではなく穢したときだ。彼らは一様に口をつぐむが、その沈黙こそが彼らの罪を隠されざるものとしている。
やはり自分たちは罪人で……今宵その裁きが訪れたのではないか。その疑念が、母親に子への言葉を躊躇わせた。
「大丈夫。誰もきみを傷つけなどせんよ」
親子は声の主を見た。
「ハドルストン卿……」
「怖れることはありませんぞ、ご婦人。あなたは罪人などではないのですから」
緑衣の老紳士は目を細めた。まるでこちらの心を見透かしているかのようだ。母親は言葉に詰まった。
ハドルストンは長身をすらりと伸ばし、張りのある声で群衆に語りかける。
「皆様もどうかご安心ください! 南の雪原で戦っている冒険者たちは、リディアでも指折りの強者たちです。彼らの奮闘により、敵軍勢の潰滅はすでに目前。そして東の灯り! 暁と見紛わんばかりのあの灯りは、かの特任騎士アルティナ・グレーテ・フラムシルト殿の熾す炎でございます。邪悪なるものを焼き尽くすあの烈炎は、今宵、皆様を守るために燃えているのです。浅ましき魔物どもが越えられるはずもなし!」
喧噪が静まる。ハドルストンはゆっくりと一同を見回し、口調に帯びた熱を取り払ってから、再び語り始める。
「わかっております。皆様が怖れているのは魔物ではない。まことの怖れとは心の内から湧き上がるもの。罪悪感という腫瘍に苛まれる苦痛は、儂にも覚えがあります。ありすぎるほどに……」
ハドルストンは眉を寄せ、目を伏せた。群衆は互いに視線を交わし合う。
「しかし、そんな私だからこそ、断言できることがあります。あなたがたが罪人などではないということです! 皆様はたしかに穢れた肉を口にされた。だがそれはカンディアーニ司教の欺罔によるものであって、皆様の意志ではない。あなたがたは飢えていた。だから喰った。ただそれだけのこと。それが罪なのだと囁く声あらば、人類を飢餓によって絶滅させようと謀る悪魔のものに相違なし。耳を傾ける必要はありません」
「……!」
母親は息子をぎゅっと抱いた。ハドルストンの言葉は彼女が誰かに言ってほしいと願うそのものであった。そのことに安堵し、同時にそら恐ろしい思いもした。
「肉食以外のことでも同様です。生きていれば、割り切れない想いをもたらす行為の一つや二つもございましょう。しかしそれがいかなる行為であれ、善良なる皆様がなしたのならば、卑劣からではなく、生きるための必然からなしたものであると、私は確信しております。なれば、なればこそ、皆様は生きなければならないのです」
「生きなければ、ならない……」
感慨深げに呟いた誰かの声に、ハドルストンは頷く。
「さよう。そして私には皆様の生命を保障する義務がある。先程、白き森方面の安全が確保できたとの報告がありました。冒険者たちが敗れるなど万に一つもありませんが、いつでも逃げられるよう、教会の庭園跡地へお集まりください。我が精強なる兵たちがお守りするゆえ、どうぞご安心くだされ」
ハドルストンの部下が誘導する声に従い、群衆は動き出した。それに急かされるように、息子が手を引っ張った。
「いこう、お母さん。あのおじいさんの言うこと聞いてれば安心なんだよね?」
「……ええ、そうね」
母親は立ち上がり、群衆の流れのなかへ紛れた。安堵と不安に揺れる眼差しは、足早に村の外れへと向かうハドルストンの背中を追っていた。
人気のない場所まで来たところで、ハドルストンのもとに一人の若い部下が走り寄ってきた。
「ハドルストン様。脱出の準備が整いましてございます」
「脱出?」ハドルストンは訝しげに見返した。
「小舟で川を渡り、北の平野へと脱出する経路です。もちろん民衆のための経路とは別のものです。舟が一艘しかありませんので、大人数を逃がすのは無理ですが、白き森よりも安全でございます」
「しかし君、それは」
責めるようなハドルストンの声に、若者は沈痛な表情で被さった。
「ご不興は承知しております。ですがハドルストン様、もしこの村まで魔物の手が及ぶことあれば、ご自身よりも民の脱出を優先なさるおつもりでしょう?」
「当然だ。この土地を、そして部下たちの命を預かる身として、自分だけ安全な場所にいることなどできんよ」
「本当にご立派です。しかしそんなお方だからこそ、誰よりも優先して守らなければならないと、我ら守護兵一同は考えております。まして御身は多くの富と土地の所有者であり、かつ、その後継者も定まってはおりません。こんなことでそのお命を落とされることがあれば、グランダースの政治、経済に重大な影響がおよぶのは疑いなきことです」
「それはそうだが……」
「ご自身が民衆に語っておられた通りです。貴方こそ真の善なる人でございますれば、そのお命を守るためにいかようになされようと、決して罪ではありません。ここはどうか……」
真摯な若者の眼光に、ハドルストンは俯き、沈思に耽るような間をおいた。やがて顔を上げた。
「わかった。もしもの時は、君の言う通りにしよう。……君のような者がいてくれて、儂は幸せだな」
「ハドルストン様……!」
「さあ、行きなさい。務めがまだ残っているだろう」
若者は感極まった様子で一礼し、走り去っていった。
ハドルストンはしばらくその背中を見送り、再び歩き出す。その頬を嘲りの笑みに歪ませながら。
(愚かな若者だ。儂が真の善なる人とは)
もっとも、そう見せているのはハドルストン自身である。名望という衣は着こなすのに苦労するが、その煌びやかさでああいう連中の目を眩ませ、彼の本質を覆い隠すのに役立ってくれる。
衣を剥げば、あるのは浅ましき欲望の塊だ。幼き日よりそれは変わらぬ。
物心ついた時、ハドルストンはなにひとつ所有していなかった。家族、財産、名前でさえも。だから生者から、あるいは死者から、すべてを奪いとってきた。そうすることで、名もなき子供はヘクター・ハドルストンという人間になれたのである。
それはまさしく、生きるための必然としてなした行為だった。
だが、初めてクリム硬貨を手にした時……たった1クリムの価値しかない錆びた銅貨、しかも貨幣という仕組みをまったく知らなかったにも関わらず……ハドルストンの両手は歓喜に震え、止まらなかった。
そして思った。これが欲しい。たくさん欲しい。この両手で持ちきれないほど、山や海を埋めるほど、たくさん欲しい……と。
それは彼の魂からの声であった。名望の衣に惑わされぬ賢しい連中は、ハドルストンを小鬼に喩える。当たっているやもしれぬ。奴らは使えもしない金銀財宝を奪うため、街道を行く商人を無思慮に襲う。ハドルストンには知恵があるだけだ。欲望も、やっていることも、本質的には奴らと変わらない。自分自身でそう思う。
(魂の性というのは、実に度し難いものだな。メイウッドの若造よ)
この襲撃の黒幕であろう青年を思う。
彼もまたハドルストンの本質を見抜いたひとり。そして衝き上げてくる魂の声を堪えきれなかったという点で、ハドルストンの同類でもある。異なるのは、ハドルストンの魂は強欲を語り、彼の魂は憤怒を叫んでいることだ。
その叫びの激しさが、彼を今宵の愚行に走らせた。ハドルストンやこの村の連中が憎いのならば、間者を立てて暗殺するなり、いくらでもやり方はあっただろう。だが奴は魔物を使うことに拘った。その拘りのせいで、味方であるはずの修道女と道を違えた。彼女はミーティスを守るために動き、ハドルストンは労せずして命を拾うことになる……。
(過ぎた欲望は身を亡ぼす、か。やはり引き時だな)
老齢に差し掛かり、己の欲望がようやく蔭ってきたことを実感していた。ゆえに彼は、一線を退く決意を固めていた。これまで築き上げてきた経済的、政治的基盤は鉄以上に堅固となり、もはやなにもせずとも金が集まってくる。晩節に危険を冒すこともあるまい。
この村で最後だ。この白き森の光霊珠を掘り尽くし……そして神狼珠を見つけ出す。
神の魂の結晶は、果たしていかほどの硬貨に変換できるだろう。幼き日の夢が叶うだろうか?
老人の魂は歓喜の予感に奮え、知らず笑い声を零していた。
「ハドルストン様」
彼は口を引き締めた。森のほうから姿を現わしたのは、腕に鷲をとめた執事オーリクである。
「メイウッドは見つかったか」
「はい。ここより南西、白き森の奥地にて、バルド・ロランディとふたりだけでございました。彼の《操魔の呪法》はかなり遠距離まで影響するようです」
他人を信用しないハドルストンではあるが、このオーリクは腹心として恃む唯一の存在であった。執事として有能なだけでなく、鳥と心を交わす術の持ち主であり、諜報など何かと役に立つ。
「遠距離か。では、手勢を差し向けて始末するのは難しいかな」
「いえ。それが、すでにレイチェル・マクミフォートが到達、バルドと交戦したようです」
「ほう?」
あの女は白き森を北上してくる魔物を相手していたはずだ。狩りつくし、そのまま南下して友のもとへ至ったか。
「化け物同士、共倒れしてくれれば願ったりだがな。どうなのだ?」
「激戦の末、レイチェルの側が癒し切れぬほどの深手を負い、一時撤退。バルドがそれを追い、遅れてメイウッドも続いています」
「ふん。狼も存外に頼りないな。では、この村に戻ってくるつもりかな?」
「いえ。北西方向へ直進しているようです」
「北西だと?」
ハドルストンは考え込む。ミーティスや冒険者たちのいる方角ではない。無秩序な逃亡かもしれぬが、もし目的があるとしたら。
(深手を癒す。決着をつける。いずれにしろ、奴は力を必要としているはずだ。白き森に眠る大きな力……)
そう、たとえば、神狼珠のような。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?