【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #29
「ぬ、おお……ッ!?」
バルドはバランスを崩し、土の壁を粉砕しながら転倒した。レイチェルはすぐさま振り返り、シラキバを逆手に持ち替え、バルドの頭を刺しにいった。バルドは転がって回避した。
「ぬうう……ッ!」
バルドが呻く。レイチェルは間髪入れずに追撃をかける。片足を奪ったいまこそ最大の好機。強引にでも畳みかけるべし。
だが、そう甘くはなかった。バルドは両の拳を地面に叩きつけた。雪と土が舞い上がるほどのその衝撃で、自らの躰をも浮かせ、宙返りをし、残った足で地を踏みつけた。レイチェルの眼前にアースウォールが形成された。
レイチェルはシラキバを二度振った。土の壁に交差する線が走り、ガラガラと崩れた。
足止めはほんの一瞬のこと。しかしバルドにはそれで十分のようだった。彼はすでに相応の距離をとり、二本足で立っていた。斬り落としたはずの膝下には闇が蠢き、骨肉を補いつつある。レイチェルも及ばぬほどの驚異的な再生速度である。
それでも、レイチェルに動揺はなかった。力には必ず何らかの代償がある。あの再生速度は何かと引き換えにして実現させたもの。きっと気のせいではない。
「貴様……何だ、その刀は……!」
「語りは終いにしたはずだよ」
それだけ答え、修道女は両手で刀を構えた。
大きく躰をねじり、力を溜め、解き放った。彼女は跳んだ。伊良流剣術基本の型、《襲牙》。獣じみた跳躍で一気に距離を詰め斬撃を叩きつける、狼の強襲。
「ぬうッ!」
バルドは退いた。切っ先は彼の腕を僅かにかすめ、振り落とした雪面に一点の朱い染みをにじませた。
レイチェルはさらに、踏み込みながらの斬り上げ二連を放つ。《廻雪》。流れるような剣閃は、その名の通りに足元の雪を巻き上げ、眼前の敵を眩ませる。
「ぬうう……ッ!」
バルドは狼狽している。その隙に、レイチェルは彼の側面へ回り込んだ。そして脇腹を横一文字に斬りつけた。
「ぐおッ!? おの……れぇッ!!」
反撃の拳。レイチェルは深追いせず、滑るように距離をとった。そして、あえて少しだけ待った。
たったいまつけた傷も、瞬き三度ほどの時間で塞がってしまった。足などはもう完治している。ならばこれまでの攻撃は無駄だったのだろうか?
否、否だ。あれだけ膨張していたバルドの肉体が、ひとまわり小さくなっている。さっきまで筋力の増強に使っていた闇の霊力を、治癒力に割いているせいだ。斬れば斬るほどに悪魔じみた彼の肉体は弱体化し、さらに斬りやすくなる。そういうことだ。
「痩せてきたね、バルド。いまならその首を落とすのも簡単そう」
「ほざけ……!」
バルドの殺意は未だ曇らず。彼は足を持ち上げ、これまでで最大の力で三度、大地を踏みしめた。そこら中に土の壁が乱立した。
それらはレイチェルを阻むためだけの壁ではなかった。土の隙間に充満していた闇の霊力が収束すると、鋭く長い槍となってレイチェルを襲った。
レイチェルは躱す。躱した先にまた土壁、そして闇の槍。バルドが再び地面を揺らす。壁が崩れ、また新たな壁が生えてくる。刻一刻と変化する土の迷宮。気付けば四方を槍に囲まれている!
レイチェルは、正面からの槍にシラキバを振り下ろした。光の刀と闇の槍は反発しあった。レイチェルは力づくで抑え込み、そこを支点に跳び上がる、そして抑えていた力を緩め、解き放った反発力でさらに高く跳んだ!
彼女は壁の上にのぼった。バルドの位置は臭いでわかる。雪の静けさの中で激しく燃え上がる憎悪の臭い。レイチェルは壁の群れを跳び越えて、そこへシラキバを振り下ろした。
バルドが見上げていた。
予測されている。彼は白刃取りの構えをとっている。レイチェルは構わずに振り下ろす。
音を置き去りにして重ね合わさったバルドの掌は……しかし、シラキバに追いつけなかった。無慈悲な白き刃が彼の頭蓋に迫った。
バルドが首を傾けた。
カン。それは音というより、シラキバからレイチェルの腕に伝わる感覚だった。バルドの額に生えた黒角と触れ合った、その感覚。
刃は逸らされ、バルドの肩に沈んだ。さらに肉と骨を裂きながら、沈んで、沈んで……やがて心臓に至る寸前で止まった。ビシリと音をたてて軋むバルドの筋肉が、刃を抑え込んだのだ。
「貴様の牙、奪ったぞ」
バルドは言った。
レイチェルは、躊躇なくシラキバを手放した。振り下ろされたバルドの手刀は空を切った。
シラキバは雪のように散っていった。
土壁が崩落していく只中を、レイチェルは滑った。彼女は四つ足の獣のような姿勢をとっていた。すなわち、両手をついている。雪のなかに。
彼女は引き抜いた。
その手には、再びシラキバがあった。それも二本。バルドは歯を食いしばる。
「貴……様……!」
「私の牙じゃない。この森の怒りだ」レイチェルは言った。「この静けき森はあんたを決して許さない」
修道女は躰をねじる。《襲牙・双刀》の構え。
彼女は跳んだ。バルドは防御姿勢をとった。連続で振り下ろされた二つの刃が、右腕を斬り落とした。レイチェルは続けて右手首を返し、斬り上げた。左腕が飛んだ。そのままシラキバを宙高く放り投げた。
さらに彼女は流れるように連続後方転回。跳び上がりながら、残ったシラキバを投擲。バルドの左足を貫く。彼は膝をついた。
レイチェルは着地した。そして落下してきたシラキバを受け取り、両手で突きの構えをとった。
バルドは膝をついたまま。動くにはもう二呼吸いる。両腕はなく、胸を守るすべもなし。
それでもバルドは力強く睨んでいた。
二人の視線は、刹那、ぶつかり合った。
レイチェルは左足を前に出した。次の瞬間、
BANG!
「──ッ」
声のない呻き。脇腹に突き刺さる違和感。
レイチェルは、視界の端、木々の狭間の闇に立つ、クリスの姿を見た。彼はフリントロックの銃口をレイチェルに向けていた。レイチェルをまっすぐに睨んでいた。
それでもなお、彼女はバルドを殺すため、踏ん張ろうとした。だが、できなかった。腹に力が入らず、下半身が崩れた。たかが弾丸一発。おかしい。ただの銃弾ではない。
「ブルルルオオォォォォーッ!!」
咆哮。迫りくるバルド。レイチェルは動けない。動けない──!
まず、額の角が、彼女の胸を貫いた。それから巨大な質量が激突した。暴れ馬の突進は止まることなく走りつづけ、樹に衝突した。修道女は磔にされた。
「ん、ぎ、ぃ……ああああぁぁぁーッ!?」
レイチェルは甲高い悲鳴をあげた。
貫かれた痛みもあるが、それ以上に、弾丸だ。脇腹深くに刺さった弾丸から、真っ黒な感覚が拡がっていく。おぞましい闇の侵蝕。レイチェルの体内をめぐる光が次々と捕らわれ、喰われ、侵されていく。
「はっ、はあっ、は……んぅ、ぐっ! はっ、あっ、はあっ……あっ、あっ……!?」
レイチェルは白き森の霊気を求め、喘いだ。しかし呼吸をすればするほど、すでに血流に乗った闇の霊素の循環をも早めてしまう。拍動のたび、彼女はびくびくと痙攣し、力を失っていった。シラキバが散っていく。髪色が雪白から金糸雀色へと戻っていく。
クリスが銃口を下ろした。そして言った。
「闇霊銀、それにトリカブトを配合した特製の弾丸だよ。君を殺すための黒銀の弾丸だ。……さようなら、レイチェル」
涙で滲む視界を、レイチェルは必死に凝らす。角で串刺しにしたまま、バルドは闇を蠢かせ、腕を再生している。目の前で拳が握られる。レイチェルの頭を砕き潰すべく。
レイチェルは歯を噛み締め、決断した。
鉤爪を振り上げる。バルドが警戒した。だがそれは、彼を切り裂くためのものではなかった。
彼女はその爪で、自分の脇腹をこそぎとった。撃ち込まれた弾丸ごと、蝕まれた血肉ごと、腰椎や骨盤が覗けるほどに、思い切り。
バルドとクリスは目を見開いた。
さらに彼女は、逆手に持ったシラキバを振り上げた。消えかかった刀は小太刀ほどの長さになっていたが、まだ形を成していた。彼女はそれを、バルドの頸椎に突き立てようとした。
バルドは角を抜き、退いた。
崩れ落ちたレイチェルは、次にクリスを見た。立ち竦む彼に向けて、シラキバを投擲した。バルドが割って入り、庇った。腕に刺さったシラキバはそこで消滅した。
彼女はふらつきながら立ち上がった。そして彼らに背を見せ、森の奥へと走り去った。血と臓腑をぼたぼたと垂れ流しながら。
「逃がさん! 貴様だけはッ!!」
「バルド!」
バルドは追っていった。もはやクリスの声も届いていない。
地を揺らす足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ひとり残されたクリスは息を吐いた。それから彼らの戦いの跡を見回した。雪は獣たちの血に濡れて、ただ無音だった。
……その様子を、はるか上の枝から、一羽の鷲が見下ろしていた。
やがてクリストファーが二人のあとを追い始める。それを見届けると、鷲は飛び立っていった。ミーティスの村の方角へ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?