【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #28
レイチェルは空中で姿勢を整え、両足を地につけて木々の狭間を滑った。視線は常にバルドを穿っていた。痛みなど意に介さなかった。
「ぬうん!」
バルドは己が砕いた土壁の破片を蹴り、飛ばしてきた。レイチェルは左腕を庇いながら横に転がって回避した。
さらに二発、三発。レイチェルは躱す。躱しながら、回避運動と連動したしなやかな蹴りを破片に叩きつけ、バルドに跳ね返した。破片は彼の頭をしたたかに打ち、割れた皮膚から血が飛び散った。
バルドが再び足を持ち上げる。彼の詠唱動作。
「ぬうん!」
彼が大地を踏んだ。
レイチェルの両脇に、土の壁が生えた。遠距離からの複数生成。これまでのバルドにはできなかったはずの高度な技だ。
バルドは両腕を胸で交差させ、前に屈んだ。
ぞわりと、首筋が粟立った。闘牛じみた構え。魔剣士ヴァルラムの魔影を砕いた突進の記憶がよみがえる。絶対にあれを受けてはならないと、本能が告げている。
「ブルルルオオォォォォーッ!!」
バルドが雄叫びをあげ、突進した。レイチェルの何倍もの質量が、矢のような速さで迫ってくる。
瞬間、レイチェルは思考した。両脇には土の壁。後方に逃げ場はない。上方へ跳躍する力を溜める時間もなし。
──ならば前だ。
彼女は一歩、右足で加速した。そして重心を後ろへ倒しながら、左足を前に滑らせ、スライディングした。丸太のようなバルドの足の鉄槌をギリギリでくぐり、背中側へ抜けた。
ズウウウン! 空気が揺れた。レイチェルは起き上がり、振りかえった。遠くにバルドの背中が見える。額の黒角が樹の幹に突き刺さっているようだった。
レイチェルは彼のもとへ疾駆した。
バルドが角を抜き、こちらに向き直る。レイチェルは構わずに突っ込む。
「ぬああッ!」
バルドの破城槌じみた拳の二連撃。レイチェルはかいくぐる。そして槍のように鋭い手刀を、左胸に突き刺した!
「ぐ……ッ!」バルドは呻いた。
しかし、レイチェルの爪は……心臓までは届かなかった。バルドの胸筋は信じられぬほど分厚く、固かった。
再びの、強烈な危機感。突き刺した腕を、バルドが左手で掴もうとした。レイチェルは間一髪で腕を引き抜くが、続く右の拳は躱せなかった。
「ぬうりゃッ!!」
「ッ……!」
背中まで貫きそうな、腹部への一撃。反射的に硬くした腹筋が、レイチェルの命を守った。彼女は血反吐をまき散らしながら吹っ飛ばされた。
雪の上を転がりながらも、彼女はうつ伏せに倒れることはしなかった。歯を食いしばり、唸るような呼吸を繰り返す。
「GRRRR……RRR……」
激烈な痛み。体内で血泡が弾ける嫌な感覚。それでも繰り返す。普段よりも治癒が早まっている実感がある。左腕の骨もすでに治っていた。ここが白き森だからなのだろう。
しかし、治癒力に助けられているのは、どうやらレイチェルだけではない。憤怒の足取りで近付いてくるバルドの額と左胸の傷が、蠢くような闇に蝕まれている。闇はみるみる内に血肉と化して収縮し、消えた頃にはもはや傷跡すら残っていない。闇の治癒。黒角の加護か。
だが戸惑いはしない。レイチェル自身がそうであるように、即死すれば治癒力など無意味。ならば狙う箇所はいつもと同じだ。心臓、頭蓋、頸椎。
心臓は、レイチェルの力では貫けないとさっきわかった。ならば頭蓋か頸椎。どうにかして彼の頭上か背後を縺ィ繧句ソ�ヲ√′
レイチェルは眼をしばたたいた。
(何。いまの……)
「ぬうん!」
バルドが目前に迫っていた。レイチェルは刹那の幻視を振り払い、バルドの前蹴りを後方に跳んで躱した。
バルドはなおも追ってくる。彼の動作自体は重厚だが、歩幅があまりに大きく、そのせいで引き離せない。頭上や背後をとる隙もない。
ならばこの先の展開は予測できる。彼はいずれまた土の壁を形成し、逃げ道を塞いでくるだろう。近接戦ではレイチェルが圧倒的に不利。彼は必ずそれをする。レイチェルは彼の両足を注視する……。
バルドは右足を持ち上げた。膝の位置が高い。
振り下ろす。雪を割り、大地に霊力がほとばしる。レイチェルは極限まで集中し、その流れを追う。
真後ろ二歩の位置。
レイチェルは後方転回した。
土の壁が垂直に伸びてくる。レイチェルは丁度その真上。彼女は壁の先端に両手をつけ、壁の伸びる勢いに乗り、上方へ跳び上がった!
「なにッ」
見上げてくる視線を置き去りにして、レイチェルはバルドと背中合わせに立った。そして振り向きざま、無防備な頸椎に向けて手刀を謾セ縺ィ縺�→縺励◆縲�
再びの幻視は、どこか予感じみていた。
レイチェルは手刀を止めた。
ほぼ同時に、バルドの首が……否、全身の筋肉が、さらなる憎悪に膨れ上がった。もはや肉ではなく岩だ。レイチェルの力では貫けない。
バルドの強烈な後ろ蹴りが襲い来た。まともに受ければ全身が砕けるほどの威力。レイチェルは退きながら受け、衝撃を後ろへ流しながら、あえて吹っ飛ばされて後方へ逃げた。
「否! もう逃がさんッ!!」
バルドは軸足を捻って反転。蹴り上げたほうの足で強く踏み込んだ。
地を走る霊力が、吹っ飛ぶレイチェルを追い越し、背後で土の壁を生成した。レイチェルは背中を強く打ち、落下した。
「うッ……ぐ……!」
ちかちかする意識を強いて、前を見る。バルドが胸の前で両腕を交差している。突進の構え。受ければこちらの死。躱せば向こうの隙だ。
だが……隙をついてどうなる? バルドの肉体は、もうレイチェルの爪牙ではかすり傷程度しかつけられない。その傷さえも黒角の闇が癒してしまう。殺し切れる武器がないのだ。
鈍化する体感時間のなか、彼女は先程の幻視のことを考えた。
あれはきっと、この森の記憶だ。この森の土で眠っている神様の記憶だ。光の霊素へと還ったその魂が、呼吸とともにレイチェルの中へ入ってきている。そして助けようとしてくれている。
レイチェルは目を閉じた。瞼の裏、焼きついた幻視の記憶を、確かな形としてつかむために。
「ブルルルオオォォォォーッ!!」
時間が溶けだした。バルドが咆え、突進してくる。
レイチェルは目を見開き、雪に手を突っ込んだ。そして極限まで低くした姿勢で前へと踏み出しながら、引き抜いた。
その手には刀が握られていた。
雪の光が凍りついたような、真っ白い刃の刀。《白牙》と呼ばれていた刀が。
彼女は抜刀した勢いのまま、滑るように斬り上げた。バルドの片足が斜めに両断された。
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