【豚が狼を喰らうのか?】 #6
レイチェルは窓を突き破り、ヒースと共に二階から飛び降りた。攻撃を逃れるため、そうせざるを得なかった。
着地と同時に体を転がして、落下の衝撃を殺す。すぐさま起き上がり、ヒースの姿を探した。
ヒースは運よく生垣に受け止められていた。彼は呻きながらレイチェルを見る。
「俺は……平気だ。がはっ」彼は血を吐いた。豚魔人の攻撃をかすめたせいか。「こんなもん、屁でもない」
「無理はしない方がいい」
「しないわけには、いかないんじゃあないか。何か……、妙だ」
彼の言うとおりだった。落下したのは裏庭のようだが、様子がおかしい。巨大ではないが、あちこちに豚頭の魔人がいる。クリス達は無事なのか。
「レイチェル!」
馴染みのある声がしたほうを振りむくと、アルティナがいた。二人は視線で驚きを交わしあったが、すぐに眼光を引き締めた。
三人はそれぞれに身構えて、背中を預けあう。
「あんた、何でここにいるの」レイチェルは背中越しに問うた。
「任務だ。カンディアーニ司教に尋問したいことがあってな。これはどういう状況なんだ」
「私にもよく分からないけど、邪教の仕業。さっき二階にいた」
「邪教……。もしかして《ベルフェゴルの魔宮》か?」
「そう。紅いドレスの女で、すごく大きな豚の魔人を連れていた。たぶん、カンディアーニだった奴だ」
「成る程な。奴らと繋がっていたか。バカたれ司教め」彼女はレイチェルの言葉をあっさり信じた。「だが、この連中はどういうことだ。教会ぐるみで邪教に組していたということか?」
「それは……」
「レイチェル!」
遠くからクリスが叫んだ。
「これは《魔霊転生の呪法》だ! 大量に魔の霊素を蓄積させた生物を魔物につくりかえる! 一度こうなったら、元にもどす方法はない!」
「……!」
レイチェルは目を見開いた。豚魔人の着ている衣服。そういうことなのか。
どうやって魔の霊素を? 答えはおそらく、そこら中に見えている。カンディアーニが仕入れ、信徒や民にふるまっていたという食糧だ。《ベルフェゴルの魔宮》が餌として提供していたのだ。
「やはりそうか……。致し方あるまい」アルティナは呪法について知識があったようだ。悔しげに唸り、覚悟を決めた。それからヒースの方をちらと見た。「その男は何者だ。大丈夫なのか」
「俺はカンディアーニに雇われた冒険者だ。だがもうやめだ。こうなった以上はな」
ヒースは答えながら、腰に下げた袋から霊薬を取り出し、一気に呷った。息を吐き、言葉を続ける。
「菜食主義で助かった。この村の肉を食ったことはない。だから呪法の影響はないだろう」
「わかった、信じよう。協力して魔人の群れを倒す。……眠らせてやるんだ」
騎士と剣士はたがいに弾き合うように駆け出していった。
レイチェルはその場に立ち尽くし、礼拝堂から出てくる魔人の群れを、まっすぐに見ていた。
ひとりは修道女の服を着ている。背も小さい。帳簿の受付をしていた、ふくよかな少女の面影があった。
「アー……アァー……」
豚頭の少女はのろのろと近付いてくる。涎がぽたぽたと零れ、地面を濡らした。
レイチェルは砕けそうなほどに歯を噛み締めた。
卓からナイフをひったくる。求めるように伸びてきた少女の腕をつかみ、うつ伏せに引きたおす。うなじが露わになった。レイチェルはナイフを振り上げた。
「ごめん」
頸椎にナイフを突きたて、捩じり切った。少女は死んだ。
赤く染まったナイフを引き抜き、身を起こす。牙の隙間から獣の唸りが漏れた。空気が震えた。
「ブゴーッ!」「ブゴーッ!」
豚修道士と豚騎士が襲いかかってくる。レイチェルはナイフを投げた。豚修道士のひたいに突き刺さった。それにまっすぐ拳をぶつけ、脳髄に押し込んだ。
埋まらなかった部分を指で挟んで抜きとり、斬りかかってくる豚騎士のふところに飛び込んだ。兜と鎧の隙間、さらけ出された喉元に、ナイフを挟んだ拳をぶつけた。すばやく腕を引き、突き刺さったナイフを掌で押し込む。ナイフは頸椎を貫き、首の後ろへ突き抜けた。
「ブゴーッ!」「ブオオォォーッ!」
魔人と化した修道士や騎士たちが、次々と彼女に向かってくる。
レイチェルは躊躇しなかった。淡々と彼らの攻撃をさばき、殺していった。せめて苦しまないように。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「もう大丈夫なのかしら……?」「まったく、焦らせおって」「いや、まだ油断は」
戦う力をもたない貴人たちがぼそぼそと囁き合う。緊迫していた空気は徐々にゆるみつつあった。
近付いてくる魔物はバルドを始めとする各貴人の護衛たちが適宜処理している。そしてレイチェルたちが戦い始めてからは、その必要すらなくなっていた。気の早い安堵をいだいても仕方があるまい。
しかしクリストファーは落ち着かなかった。呪法の使い手がまだどこかにいるはずだ。そいつを始末しないかぎり事態は収束しない。
「皆さん、まだ気を抜かぬように。戦ってくれている者たちを信じつつ、警戒は続けましょう」
ハドルストンが素知らぬ顔で貴人たちを纏め上げている。クリストファーはその態度から、彼がこの事態を事前に知っていたことを読み取った。だが呪法の源ではない。それは感じている。
《魔霊転生の呪法》は強力であるぶん、効果範囲は限られている。バルドの報告からすると、起点は教会のなかだ。まだ逃げていないはず。絶対に捕らえなければならない……。
「おい、あれは何だ!?」
ひとりの男が建物を指さすと、どよめきがあがった。クリストファーもその先を見た。
「ブゴオオォォォ……」
レイチェルたちが落ちてきた二階の壁の穴から、巨大な豚魔人が裏庭を覗き込んでいた。他の者たちよりも遥かに大きく、禍々しい。あれがカンディアーニの成れの果てか。
豚魔人は二階の穴から飛び降りた。着地の衝撃がここにまで伝わってきた。
魔人はレイチェルを見た。明らかに彼女に狙いを定めている。声をあげようとしたクリストファーの意識を、視界にうつる紅が引っ張った。
「あれは……女?」
礼拝堂の屋根の上で紅いドレスの女がひとり、地上の混乱を見下ろしている。直感的に分かった。あれが呪法の使い手だ。
女はひらりと身をひるがえすと、ひと跳びで地上に舞い降り、そのまま走り去っていく。村の方へ。
「バルド、あの女を追え!」クリストファーは声を張り上げた。「あいつが呪法の起点だ! 村人まで魔人化するぞ!」
バルドは機敏に動いた。ぐるりと首をまわし、女を視界の中心に据えると、初速から全力のスプリントで走り出した。
クリスの声はレイチェルにも届いていた。
「逃がさない……!」
べっとりと血にまみれたナイフを、矢のように女へ投げつける。
女は軽く跳び、回転すると、ナイフを拳であっさりと弾き飛ばし、走り去った。嘲りの視線をレイチェルに残して。
「ブオオオォォォ!」
豚魔人がテーブルを投げつけてきた。レイチェルは舌打ちし、回し蹴りで弾き飛ばした。
「ブゴーッ!」「ブゴーッ!」「ブゴーッ!」
修道士や騎士たちが集まってくる。レイチェルは両手にナイフを構え、あの女への怒りを沈めた。バルドに任せるしかない……!
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ドレスを靡かせてひた走るソーニャの耳に、村人どものざわめきが近付いてくる。
「おい、なんか変じゃないか?」「ああ。教会の方が……」「お偉いさんらの余興じゃねえのか」
ようやく異変の気配に気づき始めたらしい。ソーニャは表情を変えず嗤った。
哀れな連中だ。自分が豚に飼われる豚と知らぬまま、浅ましく餌をむさぼっている。たしか光珠派において無知は罪悪ではなかったか? ならば知らしめてやるのが彼らのためだろう。
ソーニャは右手を上げ、指と指をこすりあわせた。
「ぬうん!」
「!」
ソーニャの後方。バルド・ロランディが追いすがりながら、左足をつよく踏み込んだ。
彼の前方で石畳のかけらが低く浮き上がった。《ストーンウォール》。大地の障壁を生み出す地霊術。だが目的は防御ではない。
バルドは右足でそれを蹴りつけた。
ソーニャは右手で音を鳴らすかわりに拳をつくり、石を弾いた。そのために減速せざるを得なかった。
バルドが一気に加速する。駿馬のごときしなやかさでソーニャに接近してくる。彼は拳を振り上げた。
「ぬうん!」
「……!」
嵐のような右フックを顔面に喰らった。
ソーニャは回転しながら吹っ飛ばされ、村外れの林の手前まで地面を転がされた。露に湿った芝生に手をつき、震えながら起き上がる。
「なんて……野蛮な野郎でしょう。淑女の扱いがなっていませんね」
バルドは容赦なく走り寄り、丸太のような前蹴りを繰り出した。ソーニャは血を吐き捨て、連続後方転回で距離をとった。
バルドはなおも追撃をかけてくる。重厚かつ素早い拳の連撃を、ソーニャはひとつひとつ、躱し、いなしていった。バルドの表情にかすかな苛立ちが混じる。
ソーニャも同じだ。絶え間ない攻撃によってどんどん林のなかへ押し込まれ、村から引き離されていく。だがこれは好機でもある。この男はクリストファー・メイウッド第一の腹心。殺す価値は大きい。
(猊下。お力を)
『うん、いいだろう。程々にな』
ソーニャの魂に、偉大なる大司教ヴァルラムの声がひびいた。右腕に刻まれた1と十三の0が妖しい紅に光った。
ふたたび顔面を狙うフック。ソーニャは右手でその腕をつかみ、止めた。
バルドは目を見開いた。
ソーニャの右腕は青黒く染まり、不釣り合いなほどに筋肉が盛り上がっていた。女の肉体のそこだけに、悪魔が憑りついている。
「どうしました? 美しいでしょう」
ソーニャは言った。掴んだ手から霊力が沁み出し、バルドの腕を侵食し始めた。
「ぬうん!」
バルドはもう片方の手で殴りつける。ソーニャは手を離し、拳を躱した。そして懐に潜り込み、拳の連打を浴びせた。
「ぬううう……!」
バルドは両腕を盾にしてラッシュを受ける。よく耐えているが、それは悪手だ。ソーニャの手で触れたものは《腐り指》の術により、瞬時に腐り落ちる。防御してもダメージは蓄積していくのだ。
「形勢逆転ですね、駄馬野……郎ッ!」
「ぬううーっ!」
強烈な右ストレートを受け、バルドは数歩分を後ずさった。瀟洒な衣服はぼろ切れと化し、露出した肉体はあちこち痣のように腐っていた。
ソーニャは余裕の足取りで近付いていく。表情はなかったが、彼女は高揚していた。たとえ一部分だけであろうとも、大いなる力に身をゆだねる愉悦は筆舌に尽くしがたい。このまま目の前の駄馬を、そして光に群れる豚どもを始末し、もっともっと高揚を……。
バルドが姿勢を変えた。両腕を胸で交差し、頭を下げ、片足をひく。
タックルでもするつもりか? 健気なことだ。右腕でその頭を受けとめ、腐らせてやる。ソーニャは心のなかで嗤った。
次の瞬間、バルドの全身が膨れ上がった。ソーニャは足を止めた。それはカンディアーニと似て非なる、力強い筋肉の膨張だった。
「ブルルルオオォォォォーッ!!」
野獣の嘶きが木々を打った。
一瞬後、ソーニャは宙に浮いていた。
違う。突き上げられている。バルドの頭に。目にも止まらぬ速さで突進してきたこの男に……!
「んぐ……ああぁぁーッ!?」
ソーニャは吹っ飛ばされ、木に背中を打ちつけて落下した。
視界が明滅する。意志の力で焦点を合わせる。バルドらしきものは十数歩分も離れた場所で肩を上下させていた。近付いてはこない。消耗しているのか。
胸に違和感があった。手を当てると、生温かい血の感触がした。鳩尾に穴が空いている。貫通はしていないようだが、鋭い穴だ。いまの頭突きでか?
「これ、は……何が……」
『ははははは! こいつは凄いな!』ヴァルラムが魂のなかで手を叩いた。『成る程な、《ユニコーン騎士団》。まさに憤怒の化身というわけか。楽しくなってきた』
(猊下! もっとお力を!)ソーニャは懇願した。(かならず奴を始末してみせますから、どうか……)
『いや、駄目だ。お前と俺の魂は離れていてもこうして繋がっているが、それでも距離は重要だ。こんなに離れていては右腕だけで精一杯だよ。潮時だ。退きなさい』
(ですが、ここで退いてしまったら、村人どもを……)
『うん、バレてしまった以上、光珠派の連中に魔霊を浄化されるだろうな。魔人化はもうできん。だがまあ、後の楽しみができたと思えばいい。長く愉しむには、何事も程々に済ますのが大切だぞ。カンディアーニのような暴食はいかん』
(……分かりました)
『そもそもお客の要望はすでに叶えているんだろう? お前はよくやった。帰還しなさい。お前がいてくれないと面倒がふえて困る』
(御意のままに)
ソーニャは木に手をついて立ち上がった。胸の血は止まっている。高揚も治まった。彼女は心を錆びつかせ、木々の闇へ消えていった。
バルドは追いかけようとして一歩を踏み出したが、それ以上は進まなかった。彼は咆えた。
「何処へ行く、あばずれめ! 逃がさんぞ! 俺はお前たちを、絶対に……」
言葉はそこで途切れた。
彼は目を閉じて、大地の霊素の濃い空気をふかく吸いこんだ。彼の額には、魔女の血に濡れた一本の角が生えていた。
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