【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #6
繝ャ繧、 チェル……おい、レイ 繝√ぉ繝ォ ……
己を呼ぶ声を、レイチェルはいやいやと首を振り、拒絶した。
目を開けてはいけない。煙が渦巻いているのだ。目に沁みて、きっと泣いてしまう。だから彼女はぎゅっと目を閉じていた。
呼吸さえも止めた。絡めた両手で鼻と口を覆い、じっと耐えていた。吸い込んだら苦しいに決まっている。それにとても厭な臭いがするのだ。胃の腑が嫌悪にふるえ、ひっくり返るほどの。
そうやってレイチェルは背を丸め、煙が過ぎ去るのをじっと待っていた。
そして過ぎ去ったとしても、けっして目を開けはしないだろう。知っているからだ。目を開けたその時こそ、大声で泣き叫んでしまうことを。胃の腑どころか全身が裏返るほど、嫌悪と後悔に襲われることを。
私は知っている。知っているんだ。
だから私は、ずっと、こうして、
「レイチェル! しっかりしろ、おい!」
声の主にからだを揺さぶられた。驚いて、思わず目を開ける。
「アルティナさん……」
「大丈夫か。なにか様子が変だったぞ」
アルティナは跪き、レイチェルに目線を合わせてくれていた。彼女の表情は真剣だった。
頷きを返し、拳で目尻をぬぐう。手の甲がかすかに濡れた。
「ごめんなさい。ご心配をおかけしました」
「煙が沁みたようだな」そう言って笑うと、アルティナはすっくと立ち上がった。「周りを見てみろ。どうやら私たちは、敵の術中にはまったらしい」
レイチェルも立ち上がる。
真っ黒な森だった。天蓋は塗りたくられたような黒で、それを目指して伸びる木々もまた黒い。幹は痩せていて、細い枝は一枚の葉もつけず、苦しみ悶えるように曲がりくねっている。灰色の地面はひび割れるほどに渇いていた。
空気も禍々しい。相変わらず煙が漂っている。さっきのように濃密なものではないが、見渡すかぎりの広い範囲をゆったりと巡っていた。まるで獲物を追いつめる肉食魚の群れのようだ。
息苦しいのは煙のせいばかりではない。立ち込める空気の中に、非常に強い魔の霊素が含まれている。息をひとつ吸うごとに血が重みを増しているのは、おそらく錯覚ではないだろう。
丘の上から見下ろした森とは明らかに違う。何より、ほんの少し前まで一緒にいたはずの、クリスたちの姿がなかった。
「私たちは、どこか別の場所に移動させられたということでしょうか」
「正確には……違うと思う」特任騎士の声は深刻だった。「おそらく、移動させられたのは場所というより、世界だ」
「世界?」
「煙に包まれたとき、確かにその感覚があった。……ここは神域だ」
《堕天の魔王》によって滅びをむかえる以前の時代。神々はエルガルディアに在るものばかりでなく、中心世界とは位相のことなる空間を創り出し、そこに己の座を構えるものも多かった。それが神域だ。
そこは神が神である所以の力、すなわち霊素に満ちた空間だという。水神が住まう神域ならば水の霊素、雷神が住まう神域なら雷の霊素。魔神が住まう神域ならば……魔の霊素。
「神々が形をうしなった後も、こうして残っている神域もあるし、手段があれば出入りも可能だ。私も何度か経験がある」
「……他の皆さんは?」
「近くにはいないようだ。元の世界に残されたか、私たちと同じく引きずり込まれたか。後者なら……」
『こちらジルケだ。誰か聞こえる奴はいるかい』
アルティナの胸元から声がした。彼女は簡素なつくりの翡翠のペンダントを鎧の下から取り出し、口元に持っていった。
「アルティナです。聞こえています」
『よかった。あたしとアッペルバリは燃えカスみたいな真っ暗な森にいるんだけどさ、あんたは?』
「私はレイチェルと一緒です。同じ森の中でしょう。おそらく、奴らの神域です」
『やっぱりね。ここが本当の《ミディアンの森》ってわけかい……』
『こちらクリストファー。僕とバルドは無事だ』
『フィリップ隊です! 点呼確認完了しております!』
『いくさ屋じゃ。誰ぞ近くにおらんか。おてんば娘がゲホゲホと喧しくてたまらんわい』
翡翠から仲間たちの声が代わるがわる聞こえてきた。
これが《ささやく翡翠》。風の霊力をこめた翡翠に言葉をささやくと、あらかじめ同じ術印を刻んでおいた翡翠同士で音声のやり取りができるという代物だ。今回の作戦のためにクリスが用意し、指揮能力のある者に配っておいたのである。
互いの状況報告がひととおり済んだところで、クリスが言った。
『なるほど、神域か。確かにこれほどの瘴気は……そうだみんな、体調のおかしい者はいないか?』
『わが隊の一部が呼吸器系の不調を訴えております! 煙だけでなく、魔の霊素にあてられてのものでしょうな! ミンミが治療しているゆえ、今のところ命に関わるほどではないですが、これがずっと続くとなると厄介きわまりない!』
『フィリップさ、そんな大声ださないでおくれよ。音どころか翡翠も割れちまいそうだ』
『申し訳ない! 以後善処する!』
『とにかく、魔霊への適応力がない者にとって辛い環境であることは間違いない。僕は一刻も早く合流すべきだと思う』
「同意見です。互いの位置は、《ささやく翡翠》から届く風の流れで分かります。たぶん私とレイチェルが中心でしょう。先導します」
『うん、頼んだ。急いだほうがいい。僕たちを分断し、弱体化させた上で各個撃破するのが奴らの狙いだ。早くしないと……』
『……もう遅いかもしれんぞい』
ウィップ老の声は遠雷のように低かった。アルティナが何か聞き返そうとしたとき、
いかにも。もう遅いよ、《ユニコーン騎士団》諸君。
その声は辺り一面から響いてくるようにも、己の頭の中から響いてくるようにも思えた。
レイチェルとアルティナは同時に身構えた。
二人の眼前で煙が渦を巻き、収束する。煙は青黒い火を咲かせながら舞い、踊りながら己の記憶を思い出した。
それは憎しみに叫ぶ男の顔となり、苦しみに咽ぶ女の顔となった。悲嘆に目を伏せる老人の顔となり、困惑に口を開ける子供の顔となった。青黒い火はそのすべてを焼き、単なる煤と塵へと還した。
煙が最後にとったのは、長い髪をたらし、かつての筋肉の残滓を無遠慮にさらす、壮年の男の姿。
憎しみ、苦しみ、悲嘆、困惑、それらとは無縁だと言わんばかりの妖しい笑みで、レイチェルたちを悠然と見ていた。
直感で分かった。この男が、《ベルフェゴルの魔宮》の主だと。
絶対に許してはおけない罪人だと。
ようこそ、《ユニコーン騎士団》諸君。戦火に焼かれし我らが城、《ミディアンの森》へ。
男はゆったりと手を広げ、言った。愉し気な声だった。
俺の名はヴァルラム・クニャジェフ。《ベルフェゴルの魔宮》を統べる大司教だ。君たちの来訪を、俺はずっとずっと待ち望んでいた。心より歓迎しよう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
異なる場所で、マッハたちも煙の男を前にしていた。
「ヴァルラムじゃと? あの魔剣士ヴァルラムか?」
ウィップが煙の男を睨む。その背中に庇われながら、マッハは口元に布をあてて、ゆっくりと深呼吸した。
男はウィップを見て、目を細めた。
んー……その顔……ああ、思い出したぞ。クルト村のいくさ屋だな。たしか八代目だったか?
「儂は七代目のチェーンウィップじゃ。スヴェルターグの地下迷宮じゃ世話になったの」
そうか、そっちか。これは失礼した、七代目殿。引退したと聞いていたが。
「事情があるんじゃよ。お前さんこそ、十数年前にぷっつり噂を聞かなくなって、てっきり死んだと思っとったのに……よりにもよって魔教団の大司教じゃと?」
ふふふ。意外かな?
「意外じゃなぁ。お前さんほど、魔に属するものどもを憎んでおる奴もそうおらんかったからの」
マッハは物問いたげに老人を見上げた。
魔剣士ヴァルラム……世代の違うマッハでも、その名は聞いたことがある。二十年前、かの《霧の魔王》を討伐するため、雷光姫セリアに率いられた有象無象の冒険者がその居城に攻め入った時、頭ひとつ抜けた武勲を立てた男だ。
魔剣士という称号の由来はふたつ。ひとつは、魔物狩りと魔教徒殺しに心血を注いでいたこと。もうひとつは、彼自身が魔の魂を宿した人間であったということである。己の憎悪のために同族を殺してまわる男を、人々は畏怖を込めてそう呼んだのだ。
(憎悪のために魔物を狩る……なんか……)
そう思ったところで、マッハの心臓が高鳴った。煙のヴァルラムと視線が合ったのだ。
彼は笑みを深め、まるでマッハの心を読み取ったかのような言葉を口にした。
そう、かつて俺は憎しみとともに魔物どもを殺戮した。君たち《ユニコーン騎士団》と同じようにな。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ナメた口きいてくれるじゃないか。あたしたちがあんたと同じだって?」
愛馬の上で、ジルケは槍を強くにぎりしめた。眼前の煙を引き裂いてやりたいという欲求に、風が滲んだ。
気に障ったか? だが俺はそう思うんだよ。だから君たちには親愛の情が湧くのだ。
「クソ野郎どもの親玉が、よくもぬけぬけと……!」
「よせジルケ。そいつの相手をしてる場合じゃねえぞ……イック」
ジルケは舌打ちした。アッペルバリの言うとおりだった。魔物が周りを取りかこんできている気配を感じる。
いや、それだけではない。空気の流れ、ただよう煙の気配にも変化がある。風を使うならこれを吹き払うために使うべきだ。ジルケの直感はそう告げていた。
さすが、冷静だな。だがさっきも言ったように、もう遅いのだ。君たちは合流などできない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ゴホッ、ごぼっ……ぐるし……苦しい……」
「しっかり。息を止めてガマンだぞ、ナンパ野郎」
団員の男は自分の血に濡れた唇を吊り上げ、気障な笑いをつくった。ありがとよミンミ、やっぱお前はいい女だぜ。そう言いたかったのだろう。
「皆の様子はどうだ、ミンミ!」
「……やばいかも。吸魔の術が追いつかない」
フィリップは難しい顔で唸った。
ヴァルラムの出現とともに、周囲の煙が濃さを増した。その途端、団員たちの咳に血が混じりはじめた。煙と一緒に吸い込んだ魔の霊素が、肉体を内側から腐らせているのだ。
ミンミの術で吸い出すことはできるが、事後的な対症療法にしかならない。ならば周囲の魔霊をあらかじめ吸い尽くすか。ミンミならできるだろうが、一箇所に集中させるのはよくない気がする。
(このままでは数分もせずに部隊の半数が戦闘不能だ。この状態で多数の魔物に襲撃されたら……!)
敵の首魁の言葉はハッタリではなかった。これでは移動もままならない。煙の出元をどうにかせねば……!
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
分かってもらえたかな? 俺は嘘など吐かないよ。考えるのが面倒だからな。
その声を聞きながら、クリストファーはフリントロック・ピストルに弾薬を装填した。煙の姿をもとにして、実際のヴァルラムの額に銃弾を撃ち込むイメージを育む。
当然だが、君たちの場所は把握している。今、そこに大量の魔物、そして《ベルフェゴルの魔宮》の精鋭を送り込んでいるぞ。さあ、どうする? すぐにも腐り落ちそうな苦しみの中で、どうやってそれらを殺すのだ、《ユニコーン騎士団》よ。
「……会長」
バルドが気遣わしげな視線をむける。それを受け止めて、クリストファーは目を閉じた。
(獣の足跡……三……四……)
大丈夫だ。魂は乱れていない。むしろとても澄んでいる。この森は彼にとって存外に生きやすい場所だ。煙の瘴気がどのように流れているのか、手に取るよりもよく分かった。忌まわしい事実だが、今はただ役立てよう。
彼は目を開けた。《ささやく翡翠》を手に取った。
「作戦を修正しよう。この煙には三ヶ所の出元がある。ジルケの付近にひとつ、いくさ屋殿の付近にひとつ、僕らの付近にひとつだ。この三部隊を中心として、煙の出元を始末することを最優先とする」
『その他の部隊は!』フィリップが言った。
「三つのうち、もっとも近い部隊を支援しろ。合流、遊撃、防衛、具体的な行動は各自の判断に任せる。一秒をあらそう事態だ。連絡を密にしながら、躊躇せず、狼のように素早く動いてくれ」
額に冷たい汗が浮かんだ。煙の姿でも分かるほど爛々とした目で、ヴァルラムがこちらを見ている。
素晴らしい! 発生源はそれで正しいよ、クリストファー・メイウッド。やはり君は俺が期待したとおりの人間だったようだな。
「……」
お前は何を期待しているんだ。そう問いかけはしなかった。どうであろうと、殺すことに変わりはない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「行くぞ、レイチェル!」アルティナは剣を抜き、レイチェルを急かした。「ご老人との距離がもっとも近い。木を焼き払いながらでも、最短距離で……」
彼女はそこでよろめいた。
「アルティナさん!」
「大……丈夫だ。そうでなかったとしても、行かねば……!」
気丈に返す彼女の鼻から、血がひとすじ流れた。黒ずんでいる。彼女の血管は、肺は、どれだけ穢されているのだろう。今すぐその体に触れて癒したかった。
どうした、狼の娘よ。戦乙女は意気乾坤だぞ。ともに駆けるべきではないのかな?
レイチェルは睨み返した。煙の男は笑みを消し、はじめて残念そうな顔を浮かべた。
……いい眼光ではあるが……俺の期待していたものとは違うな。俺はかつてお前の故郷を奪い、現在の安息の家をも奪おうとしたのだぞ。それで、その目か? お前の憎しみはその程度なのか? 違うだろう?
「……」
さあ、祈るがいい。金糸雀のぬくもりを捨て、白狼の冷たい目で俺を見ろ。鋭い爪牙で、この俺を引き裂いてみろ。祈れ。祈るんだ!
「構うな、レイチェル。心を乱そうとしているだけだ。今はただ、メイウッド殿の指示通り動くことを……ッ!」
アルティナはそこで咳き込んだ。唾液とともに赤黒い液体が、灰色の地面を濡らした。
レイチェルは拳をつよく握った。
深く息を吐く。不満げな煙の男と、苦しむ仲間の姿を見比べ、考える。
――うん、分かる。でもこれは戦で、ここは敵地だ。契約上の関係とはいえ、死なせてしまうのは忍びない。そうならないよう、頼んだよ。
――もちろんです。私の祈りが届くかぎり、どんな人でも癒してみせます。誰も死なせません。
そうだ。自分はそう言っていたじゃないか。ならば、その通りにするだけだ。
彼女は決断した。
「アルティナさん。私はここで祈ります」
「レイチェル?」
「私の怒りのためじゃなく、みんなのためです。どうか、守ってくださいね」
そう告げて、彼女はその場に跪いた。
両手を組む。絡めた指に額をあてる。とじた瞼の裏で、己の魂のかけらを、真っ白な光の粒を、ひとつひとつ拾い集める様を描いた。
彼女はそれを解き放った。
半球状の光は急速にその領域を広げ、アルティナを飲み込み、乱立する木々を飲み込んだ。やさしく冷たい光に飲まれるたび、死せる木々が怯えるように揺れた。光は拡大をやめなかった。
やがて結界は、《ミディアンの森》全域をすっぽりと包みこんだ。
それは円環状の広い範囲にわたり、術印をほどこした複数の対象の傷を同時に治すための祈り。レイチェルのもっとも得意とする光霊術。群狼をひきいる血筋にのみ許された、その発展形。
《大いなる癒しの祈り》である。
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