【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #7
「これは……!」
アルティナは意を決し、大きく息を吸いこんだ。
大丈夫だ。正常に呼吸できる。煙は消えていないが、同時に入ってくる光が、身体へのダメージを即座に癒してくれているのだ。
「まったく。君らしい力技だな」
思わず笑みをこぼす。広範囲への継続的な攻撃を、それ以上の広範囲への継続的な治癒で打ち消すだなんて。ともあれ、これで全力で戦える。
彼女は《ささやく翡翠》を口にあてた。
「聞いてくれ! レイチェルが癒しの結界を張った! 私はこれより彼女の護衛に専念する! その間に、皆は発生源の処理に全力を注いでくれ!」
フィリップ氏のように声が大きくなってしまった。ジルケ先輩に叱られるだろうか。そんなことを考えられるほど、心に余裕がうまれていた。レイチェルの光は雪のように冷たいが、アルティナにいつも勇気をくれる。
しかしその気持ちは、仲間たちからの返事を待たず、切り変えざるを得なかった。
く……ふふふふふ……ははははははは!
ヴァルラムは大きくのけぞって哄笑した。不気味なほど楽しげに。
なるほど、なるほど! 強い狼はけだものの群れを指揮したほうが強いということか。たのしい。実にたのしいぞ!
煙は真っ黒な天をあおぎ、歌うように揺れた。
さあ、獣たちよ。怒りのままに駆けるがいい。魔の森はそんなお前たちを許しはしない。互いの罪を殺し合ったその先で、俺はただ待っているぞ……!
尾をひく高笑いを最後に残し、煙の男は霧散した。煙の姿でさえ、肌を粟立たせる異様な気配をはなつ男である。
だがそれが去った後も、アルティナは少しも気を緩めることはできなかった。
正面の木々の奥。煙の帳をかきわけて、ローブを纏った人影がひとつ、歩いてきている。
「貴様は……!」
「ご機嫌よう、キズモノ。虫唾が走る光ですね」
女は言った。錆びた瞳、平坦な声、それでも心底から不快に思っているのが伝わってきた。
夜明け前の空のような髪色に覚えがある。ミーティスの村での一件。紅いドレスの女……!
「こんな光でわが故郷を穢すなど許しがたい大罪です。死んで贖うより他はありません」
女は指を鳴らした。
奴の背後から、魔物たちがのそりのそりと姿を現した。大半はゴブリンとオークだが、豚頭の兵士もまざっている。肌の色は炭のように黒ずんでおり、口から吐くのは息ではなく煙だ。通常種では当然なく、アビスやミストといった眷属種でもなかった。
いや、眷属ではあるのだろう。歴史に名を残した魔王ではなく、この森の主のだ。
「グギギィ……」「ゴオオォォォ……」「ブボォォォ……」
アルティナの両脇側の森からも現れる。煙に喉を焼かれているのか、声は一様に低くかすれていて、不気味だった。
「行きなさい、煙の魔物たち。罪深き雌犬どもに、魔の森の裁きを」
女はまっすぐ腕を伸ばし、命じた。かすれた絶叫をあげながら、数十匹もの魔物たちが押し寄せてくる。
アルティナは剣をたかく掲げた。
「《戦乙女よ! 汝の烈炎たる加護をわれらに!》」
聖剣ブリュンヒルトが陽色に輝く。
アルティナは柄を逆手に持ちかえ、地面に突き刺した。
刃から二筋の炎が放たれた。炎は凄まじい速度で地面を走り、互いに対称となるよう弧を描きながら、二重三重の円をつくった。そこから炎が立ち上がり、祈りを捧げる修道女を守護する壁となった。
「グギィーッ!?」「ブボォーッ!?」
飛び込んでしまった魔物たちは、熱烈たるブリュンヒルトの抱擁に数秒もせず焼き尽くされた。灰すらも残らなかった。
「「オオオォォォッ!」」
アルティナに迫るのは二匹のヘイズオーク。巨大な戦斧を振りかぶり、脳天を叩き潰さんとしてくる。
しかしアルティナの方が速かった。彼女は地面の剣を引き抜き、真横に薙いだ。炎を纏った刀身は、鍛え上げられたヘイズオークの腹筋をたやすく溶かし斬り、二匹まとめて腰から両断せしめた。分かたれたそれぞれの半身をも戦乙女の炎は抱き締め、逃さなかった。
「許しがたい大罪だと? ふざけるな。貴様らこそミーティスの人々を穢したではないか」
アルティナの言葉は静かだった。炎の壁を逆光にしたシルエットの中に、怒れる瞳と、額の火傷が浮かび上がる。
「そして今、私の大事な友達も穢そうとしている。貴様らを焼くに足るこれ以上の理由はないな」
「……」
女は両腕をひろげ、深く長く、煙を吸った。
瘴気が血管をめぐり、拍動のたびに彼女の肉体を青黒く染め上げていく。白目は反転して黒く、瞳の紅を際立たせる。ぶすぶすとローブが腐り落ち、黒い光沢のファウンデーションのみを残した半裸をさらす。両腕と胸に刻まれた回文獣数が明滅すると、縄を締めるような音をたて、痩身の筋肉が密度を増していく。
錆びた表情のまま、女は快感にふるえた。
女の肉体のすみずみに、悪魔がとり憑いている。
「ヴァルラム様の忠実なる侍従、《モアブの娘》筆頭、ソーニャ。よろしい。ならばキズモノ、殺すのはお前からです」
胸元の666の数字が威圧的に光った。
アルティナは剣を構え、臆することなく睨み返した。
「炎珠派特任騎士アルティナ・グレーテ・フラムシルト! 邪悪なる者どもよ、わが炎にかけて貴様らを討つッ!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
同じころ、ウィップとマッハは目的の場所に向かって走っていた。彼らの足取りに迷いはなかった。魔霊は専門ではないが、霊力の流れならマッハがおおよそ探知できる。
「おおっと」
「だわっぷ!」
とつぜん立ち止まったウィップの背中に、マッハが顔面から激突した。二人は弾き合って倒れた。
「あいたたた。こら、気を付けんかい。ギックリ腰になったらどうすんじゃ」
「うっさいのだわ! あたいは急に止まれないのよ! んもう!」
言い合いつつも、立ち上がって肩を並べる。前方に魔物の気配があることは二人とも分かっていた。
「ウジャウジャおるのォー。この癒しの結界がなけりゃ、さすがの儂も危ないとこじゃ」
「だわねー」
マッハは不敵な表情を浮かべようとしたが、その頬はどこか固かった。
そうさせたのは魔物ではなく、レイチェルの存在である。優れた術師である彼女は、寒気とともに理解していたのだ。この神域全体を覆うほどの霊力がどれだけ桁違いのものなのかを。
「前から思ってたけど、レイチェルさん、絶対ただものじゃないわよね。どういう生まれか気になるのだわ」
「ほぉん。お主がそれを言うんかいの」
「うひっ? な、なんのこと?」
「まあええわい。ほれ、来るぞ。さっさと遊びの支度をせい」
マッハは唇を尖らせるが、大人しく杖を握った。雷霊珠がつよく輝きだした。
「バウ! アオウッ!」「ゴフルルル!」
現れたのは黒くしなやかな体躯の魔犬の群れ。紫色の汁をしたたせる牙が肌に刺さればどうなるか、火を見るよりも明らかである。だがマッハは欠片も怖れはしなかった。
「《うひひのひひひのうひひひひ》! ビリビリするのだわよーッ!」
雷霊珠の杖が輝きを放った。輝きは五つの球となり、放射状に宙を駆けた。それらが魔犬の群れに接近すると、各々に稲妻の鎖をのばし、魔犬に結び付ける。
「ギャイッ!?」「ギャババババババババ」
稲妻に繋がれた魔犬の群れはそろって痙攣した。
《サンダービット》は術者が敵と認識した物体を自動攻撃する雷霊術である。一時的な痙攣による拘束性能は高いが、そのぶん威力は低い。だが問題はなかった。ここには歴戦の傭兵がいるのだ。
ウィップは右手に一本の棒を握っていた。剣の柄のようにも見えるそれは、ミスリル製の霊具である。名をクルトウェポン。老人の姓と同じであった。
「さあて、さて。犬の躾にゃあ、やっぱこれかの」
ウィップは獰猛な笑みを浮かべ、クルトウェポンに霊力を込めた。刻まれた複数のしるしの内、七つ目が鋼鉄色に輝く。
すると柄の先から同色の光がつらなり、それらは一瞬後には鋼鉄そのものと化した。棘のように鋭い菱形がいくつも繋がったその武器の名は、チェーンウィップ。老人の名と同じであった。
老人が腕を振る。鉄同士がこすれあい、鞭が風を切る音。血飛沫をあげて飛ばされる魔犬たち。すべてが同時に起きたように見えるほどの速さだった。
「ギャヒンッ!?」
「はっはァ! みっともない鳴き声じゃのう、駄犬め!」
ウィップは高揚した様子で次々と鉄鞭を振るった。暗闇の森を照らす雷球の閃きのなか、魔犬の血と肉がつぎつぎと刎ね飛ばされていく。マッハの《サンダービット》で動きを封じ、その間にウィップが始末する。二人の常套戦法だ。
だが後続の気配が途絶えていない。マッハは第二陣に備え、霊力を練り上げようと……する前に、気付いた。稲妻の鎖をのがれた魔犬が二匹、別方向の木陰から走り寄ってきている。
「お爺さま、右ッ!」
「む」
ウィップはすでに鞭の間合いではないと判断すると、クルトウェポンにふたたび霊力を注いだ。
二つ目のしるしが輝くと、霊具は姿を変えた。やや幅広のショートソード。《二代目のカッツバルケル》。
「ギャオウ!」
飛びかかってくる魔犬を、ウィップは身を屈めて躱しながら、喉元に剣先をうずめた。唾液を浴びないよう動きつつ、そのまま次の攻撃への肉盾とする。二匹目が仲間の死体に牙を立てたところでまとめて地面に叩きおろし、頭から剣で串刺しにした。どちらの魔犬もすぐに動かなくなった。
「さすがご先祖様の鍛えた逸品。軽さの割りによう刺さるわい」
死骸から剣を抜き、体液を振り払いながら、老人は……チェーンウィップ・クルトウェポンは、いつものように祖先へ感謝の念を捧げた。
彼の一族は代々傭兵であり、鍛冶屋でもある。クルトウェポンの家系に生まれた者は、しばらくを仮の名で過ごしながら、ひたすらに鍛冶屋の修行にはげむ。そして生涯を共にする得物を自分の手で完成させたとき、その武器の名を名乗ることを許される。そういうしきたりだ。彼がチェーンウィップの名を与えられたのは二十歳の頃だった。
それからは手ずから鍛えた武器をたずさえ、傭兵として数多の戦場を渡り歩いた。祖先から受け継がれてきた霊具に、おのれの魂を染み込ませるためだ。魂とは記憶のみなもと。握った手のひらから血と汗とともに染み込んだそれは、単なるミスリルの棒に過ぎない物体にいくさの記憶を覚えさせる。霊具はその記憶をもとに形を変え、扱い方さえも所有者に伝えてくれるのだ。それがクルトウェポン。やがて最強となる武器の名であり、脈々とそれを鍛え続けていく一族の名である。
「カカカカカ! ノってきたぞぉ。どいつもこいつも孫への土産話としてくれる!」
武器をふたたび《七代目のチェーンウィップ》に戻し、老人は腕を振るう。稲光がまたたくなか、血肉が森に散乱した。斃れた死骸から、魂が煙となって彷徨いはじめた。
「なんかいつもより元気だわねぇ。レイチェルさんの結界のおかげかし……うひゃあっ!?」
マッハは仰け反った。どこかから飛来してきた一本の矢を、雷球が至近距離で自動迎撃したのだ。さすがの彼女も肝を冷やした。
「お、お爺さま! 弓兵が潜んでるわ! たしけて!」
「なにィ? ようやく歯応えのある土産話が来たかいの!」
慌てふためく様子を見せる少女を尻目に、ウィップは凄惨な笑みを左の森の奥に向けた。
その眼光を……、遠く離れた闇の向こう、太い枝の上で、狙撃手の女はしかと受け止める。
「なるほど。即座に反撃してこないということは、あの武器は弓などの長距離武器には変化できないと考えてよさそうだな」
ミディアンの黒い木材でつくられた長弓を構えつつ、青肌の女は呟く。彼女の名はドミニク。《モアブの娘》序列第五位、黒い短髪の弓使いである。
「娘の方は……詠唱こそふざけているが、あれはオーソドックスな《サンダービット》の術か。では、これは如何かな」
ドミニクは片手をあげた。枝の下で待機していた十匹のヘイズオークが、弓を構えた。そしてドミニク自身の一射を合図とし、いっせいに山なりの矢を放った。
天蓋なきミディアンの森はそれらを素通りさせ、マッハのもとに降らせた。もちろん稲妻の自動迎撃により彼女には届かないのだが、そのたびに雷球の霊力は消耗し、終いには消失していく。そこへさらに第二射、第三射が!
「うひゃあーっ! あたいのきゃわわなビットたちがッ!」
「もっとたくさん出せばいいんと違うんか!?」
「出せるけどぉ! あっちゃこっちゃから犬ッコロも来てんのよ! このままじゃジリ貧なのだわ! せめて背中を任せられるのを一人二人……」
ちょうどその時だ。ウィップたちがもと来た方向から、複数の足音が近付いてきた。
「いくさ屋殿ですね!? 援護に参りました!」先頭の槍使いの青年が言った。胸元には一角獣のメダリオンをぶら下げている。
「うひょ! ナイスタイミングよ、お兄さま!」
「え? いえ、僕はあなたのお兄さんではありませんが……」
「きゃわわな反応してんじゃねーわよッ! あたいら、向こうの弓手を始末するからさ、お兄さまたちは犬ッコロの相手しといて!」
「りょ、了解です! お供はいりますか!?」
「必要ないじゃろ。この程度、ジジイと小娘にお任せあれじゃ」
ウィップは鞭をしならせて、空を見上げた。また矢の雨が降りそそいでくる。
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