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大学生のわたしが社会に思うこと

今週、誕生日が来ます。来ますというのも何か違うな。年を重ねる予定です、無事に行けば。
そんな私のエゴを全力でここに書き並べて,  あのときの私を供養したいと思います。さよならして、私がもっとフラットに社会を見れるように新たな1年を始めたいと思います。


 よく、タイパ、コスパとか言うじゃないですか。私、そういう類の言葉が苦手なんですよね。そんなに効率化して楽しい?嬉しい?って思うんです。この世の中、タイパ、コスパばっかり追っかけてたら、物事の意味とかを感じられなくなると思うんです。
例えば、私がカントを読むとします。カントって難しいじゃないですか。読んでいてもわかるところが少ない。だから一冊読むだけで、何週間もかかって、しかも一緒に解説書も読むから、あり得ない労力なんですよね。これってタイパを重視する人にとっては、信じられない行為だと思います。「そんなに時間かけて何がいいの?もっと楽しなよ。YouTubeに5分で分かるような動画上がってるよ」みたいに言うかもしれません。でも、違いませんか?5分で分かっても、カント自身の偉大さを感じることはできないし、カントの語る言葉の重さを感じることはできない。「カントが書いた」本を読むことに意味があるんです。

おんなじことが、社会にも言えるはずです。私たちは「役に立つ」か「役に立たない」かで物事の判断をしがちなんじゃないかなと思います。
研究すべてが役に立つものでもないし、人間も役に立つだけで生きてるわけでもないわけです。役に立つ=タイパ、コスパになりつつある世界になっていっていないですか?タイパ、コスパを追求するその先に何があるんですか?私はまだ何も知らない大学生で、何もできない大学生ですが、この社会が私が望んでいるものとは大きく違っていて、でも私はその一部であることだけは感じています。
全く「役に立つ」ということを否定しているわけではないです。私自身、母には「人の役に立つ人間になりなさい」と口酸っぱく言われて育てられてきたので。ただ、個人が社会の役に立っていなくても、誰かの心の中にいたり、自分の存在の価値や意味を感じてくれるようになってほしいと思ってしまうのです。コスパ、タイパを重視すればするほど、人間は機械化し、不要な人間が生まれてしまう。そんな世界になってほしくないのです。

でもこれって綺麗事ですよね。
こんな願いが叶うわけなくて、私は社会に馴染まないといけない。うまく社会を渡るために、自分を機械化して、不要なことが起きないように注視しないといけない。無駄があってはいけない。そして私はそれに慣れていく。だからこの気持ちは早いことさよならして、コスパ、タイパを大切にしなければならない。私はカントの本を読むべきじゃなくて、ロールズの考えを知るべきじゃない。だってそれは効率的ではないから。どこかの誰かの歯車として生活しなければならない。
これは極端なことを言っているかもしれないけど、そんなに大きく変わらないんじゃないかな。
いろんな意見があるとは思うけれど、ここに自分が何を思っていたのか、年を重ねる前の私の記録として残しておきます。

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