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『関心領域』と私のミス


 映画が好きというより、考えることが好きなので、考えるきっかけを作ってくれそうな映画を観るのが好きです。そういうつながりで、関心領域を観に行きました。

 どっかの誰かのレビューで何も食べる気が起きないと見たので、お昼ご飯のピザは始まる前に噛まずに飲み込むみたいに食べて、映画に臨みました。
ちなみに私は中学生の時からご飯を食べたあとは寝るタイプです。

関心領域、オープニングから不快な音なんです。これは別に批判していると言うより、演出として素晴らしいという意味です。あの音は、人間が鳴らすことのできない音なんじゃないか、そう思っています。だからこそ、ユダヤ人に対して行った罪を強調できるのではないかと。

開始20分、とても眠い。眠すぎる。私は耐えられずに寝てしまいます。ここで私のミス1つ目です。私は前日あまり眠れず、加えて私はご飯を食べたあとは眠くなるタイプです。そしてこの脚本!!つまらないというより、平淡なんです。大きなことは起きない。ただ、一家がアウシュヴィッツ収容所の隣で暮らし、その日常を描く。傍からみれば、普通の一家。私は、そういうふうにとらえてしまった。この映画は観衆にそう思わせたいのだと思うくらいに。
こういうことか。これが言いたかったのか。後悔と同時に自分の恥ずかしさを感じました。
つまらないと思っている。自分の周りで起きることにしか目がいっていない。見て見ぬふりをしている。私はあの一家と同じことをした。

人間、誰でも『関心領域』はあると思います。私は哲学文学、政治法律に関しては強い興味関心がありますが、数学物理化学に関しては、そこまでの関心はありません。一方で、私の友人たちは、そういう類の学問が好きで医学部や理学部に行きました。それが決して悪いことではないんです。それは私達人間が逆らうことのできない性質なので。それに、全てに関心を持ってしまったら、私達は壊れてしまう。自分の罪の重さに耐えられなくて、消えたくなってしまう。生きるために、関心領域を作る。生きていくために、見なかったことにする。自分のために。

そして、物語は続きます。印象に残ったシーンがあります。それは女の子がじゃがいもを置くシーン。
以前、フランクルの『夜と霧』を読んだとき、フランクルがドイツ人全員が悪い人間ではないという記述がありました。時にフランクルを始め、ユダヤ人に対してじゃがいもやりんごを渡したりしてくれた、と。そう、簡単には割り切れない。自分が時に悪人になることもあるし、善人になったりするから、この人はこうだと言い切れない。そこには、地獄と同時に救いもある。この映画は地獄だけがあるわけではない。あの少女がいる。救いがある。これは、人間には救いがあることも示しているんじゃないかと思うんです。人間には『関心領域』があって、見て見ぬふりをしたとしても、時にそうではなくなるときがあるし、そうではない人もいる。私はそう信じている。


 家の隣から出る、煙。音。声。そのどれもがほんとうは慣れていけないものなのに。いつかは慣れてしまうという恐怖がそこにはありました。

エンドロール。私は最後まで見届けられませんでしたこれは私の大きなミスです。以前拒食症になった時に、大きな音を聞くと怖くてたまらなくて、泣きたくなってしまったりパニック気味になることがあって、それがまだ完全に治りきっていなくて、音がどうしても怖くて逃げてしまいました。今も思い出すと、怖くてたまらない音。そんな私を、バカにしたり、可哀想と同情したり、あるいはどうでもいいと思ったり(これが大半でしょう)する人がいるでしょう。でもこれが私の限界なんです。受け止められない。私はガザやウクライナや、あるいは貧困で困っている国や弾圧されて苦しい思いをしている人に対して、逃げてしまうような人間なんです。だから、これからはもっと、何もできなくても、地獄で、痛みに気がつける人間になりたい。あの一家は誰もがなってしまう可能性があっても、おかしい気がするって気がつける人間でいたい。

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