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サーガとマジックリアリズム① フォークナーとガルシア=マルケス

村上春樹さん(以下敬称略)の新刊にガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』が出てくるらしい。村上RADIOでコロナ禍で村上春樹は『コレラの時代の愛』を再読していたと言っていた。

ところで僕は去年からずっと新しい長編を読むのが苦行である。僕は春樹の新刊を100ページも読めていないままだ。そして僕もガルシア=マルケスがとても好きなので少し語りたくなった。
むかし読んだ本なら思い出せる。何回かに分けて書こうと思う。

ガルシア=マルケスといえば『コレラの時代の愛』も素晴らしいが、やはり『百年の孤独』だろう。蜃気楼の村マコンドが好きだ。

あらすじ
蜃気楼の村マコンド。その草創、隆盛、衰退、ついには廃墟と化すまでのめくるめく百年を通じて、村の開拓者一族ブエンディア家の、一人からまた一人へと受け継がれる運命にあった底なしの孤独は、絶望と野望、苦悶と悦楽、現実と幻想、死と生、すなわち人間であることの葛藤をことごとく呑み尽しながら…。20世紀が生んだ、物語の豊潤な奇蹟。

『百年の孤独』ガルシア=マルケスBookデータベースより

『百年の孤独』はサーガ(一家一門の歴史の叙述)+マジックリアリズム(現実と非現実性の融合)の見事な作品だと思う。
これを読まないのは人生損していると言っても過言でない。

とりわけ僕は冒頭が好きだ。

 長い歳月が過ぎて銃殺隊の前に立つはめになった時、恐らくアウレリャーノ・ブエンディア大佐は、父親に連れられて初めて氷という物を見に行った、遠い日の午後の事を思い出したに違いない。

『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケス

川が流れるような一文の中にいくつもの時代が交錯している。
比類なきセンスと才能を示す冒頭。天才である。

テーマは血の繋がり、そして愛と孤独、死と生の円環。

そんなガルシア=マルケスに絶大な影響を与えている作家といえばウィリアム・フォークナー
フォークナーとガルシア=マルケスは大変多くの作家に影響を与えており、大江健三郎さんもそのひとりであり、春樹もそのひとりであろう。
フォークナーは虚構の街、ヨクナパトーファを中心としていくつもの物語を展開させていった。
“The Sound and the Fury”(邦題『響きと怒り』)が読みやすいかもしれない。
けれども僕は個人的に“Absalom, Absalom!”(邦題『アブサロム、アブサロム!』)が好きだ。

あらすじ
九月の午後、藤の咲き匂う古家で、老女が語り出す半世紀前の一族の悲劇。一八三三年ミシシッピに忽然と現れ、無一物から農場主にのし上がったサトペンとその一族はなぜ非業の死に滅びたのか?南部の男たちの血と南部の女たちの涙が綴る一大叙事詩。

『アブサロム、アブサロム!』ウィリアム・フォークナー Bookデータベースより


特に、やはり冒頭が前述の『百年の孤独』同様にインパクトがあり非常に好きだ。

 From a little after two oclock until almost sundown of the long still hot weary dead September afternoon they sat in what Miss Coldfield still called the office because her father had called it that—a dim hot airless room with the blinds all closed and fastened for forty-three summers because when she was a girl someone had believed that light and moving air carried heat and that dark was always cooler, and which (as the sun shone fuller and fuller on that side of the house) became latticed with yellow slashes full of dust motes which Quentin thought of as being flecks of the dead old dried paint itself blown inward from the scaling blinds as wind might have blown them.

卍丸の意訳

 長く静かで暑く気怠い死んだような九月の午後二時過ぎから夕暮れ近くまで、彼らは、ミス・コールドフィールドが父親がそう呼んでいたままに、いまも仕事部屋(オフィス)と呼んでいる部屋に座っていた──薄暗くて暑くて風通しの悪い部屋は、彼女が子供の頃、陽射しや風が当たると熱気が入るとか、暗い方がいつも涼しいと言うひとがいたので、四十三回の夏が巡るあいだ、ブラインドを締めきったままにして、その部屋の中では(太陽が窓の向こう側を、日増しに激しい暑さでまともに照りつけるにつれて)、細かい塵の立ちこめる黄色い光のすじが格子模様を作るようになっていたが、クエンティンには、その塵は、あたかも風に吹き落とされたみたいに剥がれかけたブラインドから部屋に散って、かさつき干からびた古ペンキの粉のようだった。

“Absalom, Absalom!” William Faulkner

この流れるような文章がフォークナーの最もフォークナーらしいところであり、意識の流れとプルースト的なものを感じたりもする。
その文章から虚構の街、「ヨクナパトーファ」が徐々に構築されてゆき、読む側はその街を否応なく歩かされる。

この虚構性と現実とが入り混じった地の文をガルシア=マルケスが受け取り、蜃気楼の村、マコンドの百年、『百年の孤独』へと受け継がれているように思う。
いきなり『アブサロム、アブサロム!』から読むもよし、『百年の孤独』から読むもよし、いずれにせよ何かしら心の底に塵を積もらせる読む価値ある二作品であろう。
個人的なおすすめとしてフォークナーの良さは地の文にあるため辞書片手に原著で頑張って読んでみてほしい。

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②へ続くかもしれないし、続かないかもしれない。

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