偶然と必然、偶然と運命 ②闘争領域の拡大
前回、書いたとおり、偶発的事象が必然あるいは運命として捉えられるには、僕の考えでは、ひとまとまりの偶然を他者と共有しているか連帯感を得ている必要がある。
いずれもされてなければそれは単なる偶発的事象でしかない。
つまり、エロティックな必然や運命を得るには他者との共犯関係がないといけない。
現代の資本主義的自由及び超個人主義では、そのような関係は生まれ辛いかもしれない。
経済力、知性、容姿が一定以上であり、人工的な朗らかさ=画一的な時代の潮流からはみ出さないものたちは、見せかけかもしれぬが、共犯関係を築きやすく、それらを有しないものは弾かれ、長い孤独へと駆り立てられる。
他者との差異をアイデンティティあるいは他者性とすることは弾かれる可能性への第一歩であり、画一的あるいは受け入れられやすいものが時代の潮流にしがみつくことができる。
容姿端麗なもの以外は、物分かりが良く、温和で、寄り添ってくれるものが勝者である。
なんとも味気なく、くだらない世の中だ。
フランス人作家、ミシェル・ウエルベックの処女作『闘争領域の拡大』に出てくる、主人公の同僚、ティスランは醜男で物分かりの良い経済力のある男でもあったが、資本主義的自由の格差によって不運にも他者とエロティックな共犯関係を作れない。
冷静に考えると、ティスランと結婚する女は幸せとも言える。
安定した生活、温和、物分かりのよさ。
結婚相手は、ティスランと寝なくても、ティスランの稼いでくる金で誰かと寝ることも可能かもしれない。
極めて現実的な目線でティスランを見ると、エロティックな共犯関係を築くことはできなくても、他の誰かとそれを果たす為の金づるに最適でもある。
つまり、金さえあれば、どんな醜い容姿であろうとも、どんなに知性が感じられなくとも、一時的なエロティックな関係を所有することができるのだ。
ウエルベックの本書の中でのティスランはある意味ではかなり純粋な、子どもの心を残した男でもある。彼は、彼の抱く欲望=希望と言っても過言ではないものを手放すことをしなかったのだから。
それは、偶然を必然に変えるための共犯者を探し求めることを諦めなかった、とも言える。
一方で、主人公はその探求を半ば諦めていた。
けれども、人間の宿命として、「愛されたい」「愛したい」という欲望から逃れることはできない。
逃れることは、自己欺瞞であり、現実と自己との間で引き裂かれるしかない。
男の場合、欲望、端的に例えるなら、射精によって果たされ、その瞬間は、パートナーを所有している錯覚のようなものもあり、満ち足りる。
女の場合、オーガズムはペニス≒他者の出入りするヴァギナではなく、クリトリスで達することが可能であり、それは言い換えると、ヴァギナはいつまで経っても他者によっては満たされない空虚さを持つとも言える。
だから、女は本来的には、他者をあまり必要とせず、自己完結し、他者の欲望を叶えてやるという包容さを持っているのかもしれない。
現代の資本主義的自由による格差を救うとしたら、そうした根源的な包容力ではないだろうか?
資本主義的自由の中では、偶然を必然あるいは運命と捉えることは難しく、偶然は偶然でしかなく、他人には無関心なものである。
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