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書かなければならない手紙2022

李さんが僕の髪に沢山のクリップを付けたあと、手ぐしでワシャワシャとしてワックスを息をころすかのような慎重さで付け始めた。

「你的鼻子很美、あなたって鼻が綺麗ね」

僕は鼻が綺麗だと言われたことを10秒ぐらいかけて理解した。

通訳の黄さんに広報のための建造物の写真を撮ってもらう方を探してもらった。

黄さんとともに160センチくらいの小柄なひと、李さんが事務所にやってきた。
年齢が少し不詳で、でも手の皺から僕の母親あるいはもう少し下の40代かそこらだろうか。
どことなく小柄なわりに秘めたエネルギッシュな逞しさとエレガントさが彼女の顔と手の深い皺に刻み込まれているようだった。水のようなひとだな──どうしてだかわからないけれど、そう思った。

ドビュッシーの水に映る影が聴こえてきそうな、そんな空気感がまとわりついてもいた。

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年齢不詳といえば、去年の夏か秋ごろ、アントニオ・タブッキを好きな素敵なエッセイを書くひとがいた。
SNSは顔の表情がわかるひともいれば、全くわからないひともいる。
そのひとは海を散歩した時の景色を撮るか綺麗にマニキュアの塗られた爪先だけ本に添えた写真を撮って載せていた。
どんなひととなりなのかは顔の表情や声、実際の話し方、話の内容など、具体的な何かがなければ虚構の中の砂漠の砂と同じなのだが、なぜだか彼女の書く文章に惹かれた。
顔のない風景が重なるそのひとは孤独そのものに見えることがあり、その孤独を埋めるかのように文章を書いている──そんな勝手極まりない僕の妄想がロマンティックに少しだけ広がったからなのかもしれない。あるいは、僕がどこかしら僕自身の孤独を抱きしめようとしている節があるからかもしれない──決してネガティブな「孤」ではなくて。

タブッキの『いつも手遅れ』を彼女が読み始めた今年の秋、ときどきその一篇について感想と写真を添えてSNSに彼女は投稿していた。

タブッキのこの短編集は遺稿でもあり、出す宛も既に無くしてしまったようなひとたちへの一方通行の手紙のような文章をひとまとまりにしたようなものだ。

その中で僕はとりわけ最後の短編が気に入ってもいる。

それぞれ架空の、蜃気楼の向こう側の住人たちへの手紙かもしれないけれど、僕はすべて《タブッキの愛しい登場人物イザベル》に寄せた手紙なのだと解釈している。

イザベルは『インド夜想曲』、『レクイエム』、『イザベル、ある曼荼羅』に登場する人物だ。

タブッキにとって思い入れがあるのだろう。

そんな「手遅れ」になったひとまとまりの手紙たちを読み終えたのだろうか、ある日、海を散歩するのが好きな年齢不詳の彼女は、虚構の世界から、前触れもなく消えてしまった。

消えてしまったフラグメントの影をあの運河なら映してくれるかもしれない。

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建築がらみの写真撮影を引き受けてくれた李さんは旅行用の赤いトランクを大事そうに引きずっていた。仕事道具が詰まったトランクが大きすぎるのか、彼女が小柄なのかわからなかった。

大体建物を撮影してもらうのにこんなに大型トランクいっぱいの撮影機材なんて必要なんだろうか?

少し疑問に思いながら、黄さんの方を見ると、黄さんが申し訳なさそうにしていた。

3人で某所現場へ。
簡単に済ませたあと、黄さんが「家族サービスがあるから」と言って、僕と李さんを事務所の入ったビルの前で下ろして、車で帰ってしまった。

彼女は英語が通じるんだろうか…。

不安になりながらエレベーターに乗る。

僕の胸くらいの身長だからきっと160あるかないかくらいなんだろう。
横顔を見るとなおさら年齢不詳感が強まった。
女性に年齢を聞くなんて論外すぎるしそれこそデリカシーがない。

妻にいつも「デリカシーなさすぎて怒りを通り越して笑ってしまう」とまで言われる僕だ。

そんな僕でもその手のことはわきまえているつもりだった。

「S木さんはいつもそんな格好なの?」

唐突に彼女が英語でそう聞いてきた。

初対面で、そんな格好ってそんなに変な格好してるつもりないけど、英語できないからそんな風に質問したのかな、それか、俺以上にデリカシーなくて、本当の事を言ってしまったか。

と内心思った。

「あー、まあ、そうですね。あまりスーツとかそういうのは着たことなくて……。すみません、随分ラフな格好で」

何で僕が謝らねばならないのか。
妻だったら、絶対こんなこと言ってこない。

「へー、いいじゃん、似合ってるじゃん、わたしはどう?」
とかだろう。

「服のことじゃないのよ、髪のこと」

髪──切ったばかりだし、朝起きたら天然パーマでボンバーヘッドになっているのは確かだが、出る前にはくりくりではなく、できるだけ全髪の毛には姿勢よくしてもらってるつもりだ。

「まあそうです、いつも【こんな】スタイルです」
僕が返事をする代わりにエレベーターのドアがそう言い返しながら開いた。

いつもなら女の子には先に下りてもらい、ドアが閉まらないようにちゃんと警戒してあげてる。

僕はなんだかそれすらこの年齢不詳で不躾なカメラマンにすることが面倒に思えてきた。
だいたい、黄さんも黄さんだし、お茶を出すくらいしか思いつかない。

エレベーターから出ると、沈黙がやってきた。
いよいよ僕は黄さんを恨めしく思った。

事務所のソファに座ってもらい、沈黙の中で僕はお茶を淹れる。多分、こちらのひとたちからしてみたら、なんて下手な淹れ方だろうと思われるに違いない。

それでもなんとかお茶を淹れた。
これを飲んで、さっさと帰って頂きたい。
はやくこの沈黙から逃れてひとりになりたい。

そんな念を込めて淹れた。

「少しオシャレしたら良いのよ。とてもハンサムになると思う」

李さんは、お茶をひとくち飲むと遠慮することもなく、そう言いながら大きなトランクからメイクボックスを取り出して、いきなり僕の背後に回った。

「あの、」と僕は突拍子のない彼女の行動に呆気に取られながら何かを言おうとした。

「少し髪、いじってもいい?」

「え、あ、えー?」

そうしてヘアメイクをし始めてくれた李さん。

カメラマンと言う肩書きがなかったら、ただのキチガイにしか思えなかっただろう。

クリップで僕の髪を幾つかのパーツに分けて、パシャパシャ撮る。

そのあとしわしわの良く働いてきた手のひらにワックスを付けて、僕を見つめた。

彼女の真剣な表情と目つきに僕はどこか安心した。
彼女は僕の母親くらいの年齢なのだろう。

「あなたって鼻が綺麗だから、髪も丁寧に仕上げればいいのよ」

「ありがとうございます」

なぜかウキウキしながら、お礼していた。

李さんはその昔、ファッションや映画雑誌のカメラマンを香港でしていたことがあるらしい。
きっと色々なひとたちのヘアメイクやポートレート、対象となるひとの全体としてのひととなりを瞬時に切り取り続けてきたのだろう。
それで僕のあまりに無造作な格好に我慢がならなかったのかもしれない。

色々とあって、上海に仕事場を移し、今はファッションではなく企業向けの何でも撮るフリーのカメラマンになった。

2019年、2020年の香港民主化デモを上海から見ていてどう思ったのか、今年の11月の上海のことをどう思ったのか。

彼女に聞いてみたくなった。
けど、そんな勇気はなかった。

第一に何も考えていない訳がない。
第二に僕はこの国から出て行く人間だから何でも言えるけど彼女は違う。

後片付けをして、クリップを全部トランクの中にすっかり入れてしまうと、李さんは僕にお茶のお礼をして、事務所を出ようとした。
僕は思い切って彼女を食事に誘うことにした。
変な意味ではなく彼女の話を聞いてみたかった。

見知らぬ海の好きなひとに思い描いたいくつかのエレガンスが目の前に現れて、チャンドラーじゃないけど、「夢が歩いてやってきた」、そんなひととなりが李さんにはあった。

「自宅に介護している父がいて待たせるわけにいかない」、ともっともらしい理由をつけて僕の誘いを断った。

彼女は、大事な赤のトランクを抱えるようにして立ち上がり、僕は彼女の護衛をするかのような感じで一緒に事務所を出た。

「髪が素敵になると、誰かと出かけたくなるでしょう?でもね、あなたは私みたいなおばあちゃんを誘ったらだめよ」

エレベーター前まで見送ると、別れ際彼女はそう言った。

誰もいない事務所の窓の外は夜が侵食し始めている。

僕は初対面の李さんを引き留めてまで香港のことをどうしても聞きたかったのだろうか。それとも、彼女とただ一緒にいたかったのだろうか。
話す機会を作るべきじゃないと判断されたのか。
あるいは、僕が単純に相応しくない──まだ僕には「その時ではない」

いずれかだろう。

今年は不思議な出会いが多かった。
かたちのない影みたいなエレガンスを追って蘇州の夜の冷たい湿気を吸い込む。
白い息を僕は見つめた。

ところどころに星たちが静かな夜を歌う。
それはまるで恋人たちが世界の深淵に向かって抱き合い合う窓の内側が本質で、窓の向こうの闇と喧騒が虚構だと言わんばかりの光景にどこかしら似通っている。

愛しい幻想の向こう側で僕の妄想のフラグメントたちが囁き合う。運河にたゆたいながら。

おやすみ、アニエス──水面に映る不滅の影。

きみに手紙を、いつの日か完全な手紙、真に完全な手紙を書くことを願ってやまない。そして、きみを愛していること。いまもきみを愛してる、たとえ感覚は憔悴しきっていたとしても、でもそれがぼくだから。 中略 それからきみに伝えたい。きみを待っているということを。戻ってくることのないひとは待てないのだとしても。というのも、かつての自分に戻るためにはかつての自分でなければならないわけで、それは無理だから。
 『いつも手遅れ』 「書かなければならない手紙」 
アントニオ・タブッキ 

photo by 李さん

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