2023/05/28 本はともだち
曇ったり晴れたりする、ある五月の終り。
本を片手に歩くアスファルトの田舎道は夏のうだるような日を思い出させた。
ぼんやりと辺りを見渡すと、広い道路の両サイドにはぽつりぽつりと大型ショッピング・センターとコンビニエンス・ストアが並んでいた。
晴れた日には、立山連峰が見えるはずだが、その日はあいにく鉛色の雲が空を覆っているだけだった───僕は出張で北陸にまたやって来ている。
散歩に持参した文庫本は『須賀敦子全集第七巻』と散歩途中にあるコンビニエンス・ストア止めにして受け取った『文庫で読む100年の文学』というカタログ的な新刊だった。ランドスケープの計画が田舎ではあまり機能然としていない。田んぼや畑を突っ切る誰も通らないただただ広いアスファルト。十字に横切る道が遠くに見える。その遠くには鉄塔があり、驚くことに鉄塔の真下に市役所のような近代的なコンクリートのビルがあった。もう少しなんとかならなかったのだろうか、と思いながら、歩いていると広い公園に着き、ベンチに腰掛け、本を開いた。日曜なのに誰もいないよく知らない街の公園は僕を完全に日常から遠くに連れ去り、僕はじぶんだけ螺旋状の階段を延々と登っているような、不思議な心持ちがしたベンチに座り、本を読む───僕はバベルの塔を登るウェルギリウスではなく、ベンチに座り、新刊を読むどこにでもいる凡庸な男だ───と言い聞かせたくなった。
新刊の文庫は久しぶりだった。とりとめのない僕の質問に時折答えてくださる方が執筆に携わったと知り、僕の好きなミラン・クンデラの書評が読みたくて手にしたのが動機づけだったが、他の方々の書評もわずかながら読み、巻末の年表を眺めてから、顔を上げた。
向かい側のベンチにいつかの間にか、いつかの男が座って僕に会釈した。S木ヒロさんですよね?と僕が訊ねると、彼はあなたもS木ヒロさんですよね?とオウム返しに聞いてきた。これは前にもあったやり取りだ。
この百年で、この街はどこがどう変わったのか?アスファルトを土色に変えて、ぽつんとした商業施設やコンビニエンス・ストアを古民家風にした風景を僕は考えていたんです、と男に告げると、あなたのその風景は少し違うかもしれない。ここは昔、小さな林がところどころにあった集落だったんです。今から何十年か前に、切り開いたんです。縦に……。───それで、今日は何の本を読んでるんです?と僕を射るように見つめながら言ってきた。
《愛の記憶》《社会と歴史》《生命のきらめき》《想像力の冒険》、この四つのカテゴリーで世界文学と日本文学を合わせて百冊、文庫版で読めるものをカタログ的に載せてある本を読んでたんです。ふたつの世界大戦を挟んで、米ソ冷戦、世界的な学生運動の機運、ソ連崩壊とともに資本経済の世界的支配……。そのあと文学と呼べるものに何があるのか、リストを見てみたくなったんです。と答えると、男はニヒルな笑いをした。
本の百年といえば、圧倒的に紙質や装丁の変化とそれに反比例して高くなった気がする。内容も他者との交わりより、自己へと向かうものが中心と変化していき、キャラクターの描き具合も想像をしなくていいように、余白は削られる方向だ。
値段で言えば、文庫はまだ安い。いや、それでも高い。僕の月収は一般的な建設業界の二十代後半くらいだろう。妻子と車のローン、保険、諸々の税金、ガソリン代、食費、光熱費、など、つまり生活していくのに必要な経費と子どもの学資の貯金を引くと、僕が自由に使えるのは毎月一万五千円だ。電気科金が来月六月に値上がりする。僕の普段住んでいる関東ではおよそ15%、出張先のここ北陸は約40%の値上げだそうだ。自動的に小遣いなんて減る。
プルーストらの時代の余白と近年の余白?皆、時間がないのだ───年表を見つめながら考えていると、男がまた訊ねてきた。それであなたはこの本の本たちの書評と年表を眺めたわけですが、どれが気に入ったんです?僕は、ええと……、どれも簡潔に説明されていて、良いけれど
とか……。僕が過去に読んだものもあって良かった。ですが、前後の取り上げる作家作品とのシナジー性があればもう少しカタログからエッセイ集に発展したかもしれない、そんなふうにも思ったんです。
と、長々と答えた。するとベンチの男が、僕の開いていた年表を覗き込み、大きな時事問題があってその直後あるいは十年後、あるいは二十年後にそれらが虚構に落とし込まれようとするんですね、ここには詩人たちや10年代20年代前後の検閲された日本文学、世界的学生運動が巻き起こっていたころのフランス文学、92年のソ連崩壊後の物語、94年のルワンダジェノサイド、ユーゴの紛争、リーマンショック前後、9.11、3.11関連などあまりない気もしますが。と言いながら、年表の中に入っていった。
ベンチには飲みかけの缶ビールが残された。
僕はその缶ビールを空にしながら男が勝手に書き込み始めるのを感じた。
いまの時代、買うと文庫本は千円前後し、講談社文芸文庫などは二千円を超えるものまであって驚きを隠せない。非常に高価に感じるのは僕が安月給だからというこもあるだろう。
僕が古典ばかりを読むのはひとえに祖父が世界文学全集、思想全集、日本文学全集を各社蒐集していたため、幸いにもそれらは子どものころ、読み漁ることができた。
帯に書かれた定価を見ると、時代を感じる。
ケースに入っていて800円〜1000円である。装丁、紙質ともに上質であり、挿絵はカラーだったりもする。文庫に至っては300円前後だった。文章たちは、硬質で陳腐化しにくいものばかりだ。
ケースで保存されるべく文章たちである。文庫も細かい字だが、紙質は良い。
祖父が残してくれた本たちは今では僕の心の支えになっていたり、まるで友人のようでもあったりする。お金にはならないけれども、僕には財産である。
長く次へと読み継がれるべく古典や近代文学はそうして丁寧に出版されてきた。しかしながら、いまは新訳にされてもケースに入れられるどころか、ハードカバーではなく文庫がほとんどである。
例えば、おとなが自宅で自分のみが読む、という場合にはそれで構わないかもしれない。
色々な子どもたちが集まって読む場合にはどうだろうか。
ケースから取り出す時のワクワク感、みんなで読むから、大事に扱わねばならないという物を大事にするという思いやり……。
本への愛着、愛情とそれを読むに至るまでの状況。
読書への支出は年々下がっている。
ハードカバーをジャンル問わずたくさん買い、ときには持ち運びに便利な文庫も買いたい───読むか、読まないかは気分次第であるが、そうやって出版業界が潤ってくれたら、むかしのようにまた、文学全集がきちんとケースに入れてもらえるのだろうか?
買う人がいなければ、当然出版コストは上がるのだろう。しかし、買う人の収入が逼迫していたら、本を買うどころではないし、読むどころでもないだろう。
読書が一部の富裕層の趣味にしかならないなんて、おかしな状況も割と現実的に起こりかねないのが今の日本の経済状況かもしれない。
経済主導の資本主義の成れの果てが余白を許さぬ世界だとしたら、ひとの心の豊かさはどうなってしまうのだろうか。
ひとは《言葉》で考える。決して本だけでは考える視点は増えないが、《言葉》がたくさん増えて、社会の中で他者と葛藤しながらもまじりあっていると、考える視点も少しずつ増えていく。
自分なりに、自分の頭で考える力もおのずと付いていくのではないだろうか?
おとなであれば文庫で充分かもしれない。
けれども、子どもたちには文庫ではなく、どれを読もうか?とワクワクし、ページを丁寧に開くと始まるドキドキした感覚、自分の世界とはまるで違うひとたちの世界へ入ってゆくことの楽しさを味わって欲しい。
読み継がれる良書が手軽に文庫化されるのは好ましい。それと共に、ハードカバーのきちんとケースに入った新訳も取り揃えた文学全集がいつかまた、編まれることを願ってやまない。
《本》は《孤独》と同じくらいにともだち。
《余白》あるいは《沈黙》の中に没入することの豊かさ。歴史と空間がきっちりと線引きされ文化そのものが騒々しく細切れに断片化される現代。言葉の変化は目まぐるしく、あらゆるものは瞬時に必要性をうかがえないと淘汰されていく。
そのようなことを誰もいない公園でとりとめもなく考えていると、日が暮れだしていた。僕の縦に断片化された目の前のランドスケープが静かに夜へ沈んでいく。
風が吹き、僕は立ち上がり、向かいのベンチにさよならをするために振り返る。
男が座ってメモを渡した。
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