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春子の憂鬱

春樹が六年ぶりに長編を書いた───しかも私のもっとも好きな作品のまるで建て増しのような────それだけで私は胸が熱くなった。

何日前からだろうか……。
私はInstagramのストーリーズでカウントダウン機能を屈指し、心待ちにした。

秋、たてがみを金色にたなびかせる西門へと向かう一角獣ユニコーンの群れたちのあの物語が私は好きなのだ。

新刊は秋ではなく彼らが交尾を行い新しい生命が誕生する春──春樹─── 出版されたのであった。

まだとても寒い日が続く頃、私は迷わず発売日に合わせてすべての予定をキャンセルし二日間にわたって────有給なるものを取得するため、あらゆる非難を覚悟の上で社長に直談判しに向かったのであった。

「あなたの孫───つまり、私の娘がいちご狩りをしてみたいと言っています。四月十三日前後にお休みをいただきたい。あなたも是非狩りに来てください。」

と……。

精悍な横顔の男───幼い少女の祖父───はしばらく考える《ふり》をしたのを私は見逃さなかった。

「彼女にとって、初めてのおじいちゃんとのいちご狩り。思い出はプライスレス」

と告げた。

「四月の十三日と十四日ね、それなら何とかなるかな」

彼は少し唇と頬を緩ませてそう私に言った。

私は必死だった。

電子書籍なら0時ジャストで読み始めることができる───無論、幼な子が約二年半にわたる古い夢を見ていてくれればの話である。
そうして私はKindle版と紙の本を予約したのである。

サインはない。なにしろサイン入りは十万円の法外な値段で売られる。私が手にするであろう紙の本はサインのない、あるいは、他人にとっては価値の低いただの単行本だ。
それでも私は構わなかった。

とにかくそうして彼の本を予約し、遂にその日を迎えた私はあろうことか、詩まで作ってしまったのだ。

ハルキスト────いつもどこかでそう呼ばれることに引け目を感じ、注意深く生きてきた私。
ヘーゲルとマルクスを熟読し、愛読書はドストエフスキーでなければあらない、厳しい目が光る世界である。
自分からハルキストと名乗っては断じてあらず、自己否定が前提の私の中でのハルキスト。

決して楽しみにしていたわけではない、あるいは、詩を唄うほどに楽しみにしていたかもしれない。

私は、古い夢を見にあの西門をくぐったのであった。

有給休暇は二日ある。
今日と明日。
読めるのは今日だけかもしれない。
こんなことを書いている場合ではないのだ。
それでも私は書き残しておく。

春子、サンドウィッチを作ってしまう、の巻

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