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とりとめのないこと2023/03/08 辞書とシーニュ《漠然》

僕の将来の夢はナポレオンだけれど、やっぱりやめて、天使になることにした。戦争や争いは真っ平なのだ。伝道師になるにはフランシスコ・ザビエルクラスの聖書の読み込みが必要で無理に決まっている。
それに僕は妻子がいて、修道士にはなれない。
だから、博愛の天使になるのもいいなと思い始めた。
博愛の天使になったら楽しいだろうな。
文化戦争状態の禁書祭りなアメリカのニュース。何度か見て驚くし、そうかと思えば、100年ちょっとしか経たない言葉が読めなくなってきているこの国のひとたち。

色んな禁書にされたり難しいと倦厭されたりするようになってしまった本たちの埃をパンパンとはたいて、チューリップとスイートピーが咲き乱れる花園に妻と娘と三人で本屋さんごっこをして、僕はふたりに「辞書をもってきてくれるかね?」と偉そうに指図する。
すると、娘がちいさな羽をぱたぱた羽ばたかせながらアレクサンドリア図書館の扉を開けて、太古の「本物の辞書」というのを持ってきてくれる。そのあとすぐに妻が今度は十八世紀の英国の辞書を持ってきてくれる。
サミュエル・ジョンソン博士のやつだ。
「愛する」そう、愛について。
博愛天使たちにとって知らねばならないのは崇高さと俗な性愛両方を兼ね備えた愛についての定義だ。

To LOVE (LOVE) v.a.[ lufian, Saxon.]
1. To regard with passionate affection, as that of one sex to the other.
Good shepherd, tell this youth what ’tis to love.——It is to be made all of sighs and tears; It is to be made all of faith and service; It is to be all made of fantasy, All made of passion, and all made of wishes; All adoration, duty, and obedience; All humbleness, all patience, all impatience, All purity, all trial, all observance.
Shakesp.As you like it.

I could not love I’m sure One who in love were wise.
Cowley.

The jealous man wishes himself a kind of deity to the person he loves; he would be the only employment of her thoughts.
Addison’sSpectator, No. 170.

2. To regard with the affection of a friend. None but his brethren he, and sisters, knew, Whom the kind youth prefer’d to me, And much above myself I lov’d them too.
Cowley.

3. To regard with parental tenderness.
※ Shakespはシェイクスピア 『As you like it』 Act 5 Scene 2 (『お気に召すまま』)
※ Cowleyはおそらく十七世紀のイングランドの詩人
A Dictionary of the English Language (Complete and Unabridged in Two Volumes),
Volume Two by Samuel Johnson

英国のはじめての語彙ごとの辞書を作ったと言われるサミュエル・ジョンソン博士。
このような調子で文学的な説明が各語彙に付けられていたりする。なかなか個性的でもある。

メイ先生の『小さなことばたちの辞書』という本の記事を読んでいて、漠然とむかし興味本位で見ていたジョンソン博士の辞書を思い出した。
個性的であまりに文学的なこの辞書のジョンソン博士の序文も素晴らしい。

“WORDS ARE THE DAUGHTERS OF EARTH, AND THAT THINGS ARE THE SONS OF HEAVEN. Language is only the instrument of science, and words are but the signs of ideas: I wish, however, that the instrument might be less apt to decay, and that signs might be permanent, like the things which they denote.”

(意訳)
言葉は地の娘たち、言葉の指すものは天の息子たち。
言語はただ科学の道具にすぎず、言葉もまた観念の記号にすぎない。
私はそれでもこれらの記号が廃れることなく、永遠に、言葉が指し示すものであり続けることを願っている。

僕はサミュエル・ジョンソンの大文字は聖書のヨハネのロゴスについての文章に沿っていて良いなと思う。
Preface to a Dictionary of the English Language by Samuel Johnson

「漠然」といえば、昨年の九月か十月あたりから、僕はあまり新しい長編小説がちゃんと読めないでいる。
読みたくない、というのではない。
読みたい、と思っても本当に心の底から求めている物語にはもう出逢わなくても良い、とどうしてか思ってしまった節があるのだ。
読んだとしても「心ここに在らず」状態だ。
漠然と読んでいる。
ある日そうなっていることに気がついた。
僕の昔から慣れ親しんできた作家たちのものは読める。再読に限るが。
そのため、僕が好きな作家のひとりル・クレジオの僕のまだ読んだことのない作品を読もうとして1か月前に購入したのにまだ読めていない。
視力は両眼とも、おそらく1.5あり、そんなに目が疲れるということもない。
集中力もそれなりに、というか、集中力と記憶力だけは少し良い。僕の数少ない長所だろう。
哲学者たちの本もぼんやり読んでいるけれど、まだ小説よりは読める。けれども全員、「ああ言えばこう言う」、にしか正直言って思えない。現代思想を現代フランス思想というのか、それらは過去のプラトン〜最近の構造主義までを批判して、差異を見るとか同一化を徹底的に見る(結局は差異)だけで現代にいやらしいほどフィットさせてくるだけの根掘り葉掘り論者たちにしか見えない時がある。
哲学書ですらそんなふうに斜に構えてしまう。

文芸春秋を購入してみた。
芥川賞受賞作品二作品が一千円で読めるから。
それなら読めるだろう、と思って買って、いちばん惹かれたのは、アモルとプシュケの絵画についてのエッセイだった。

新しいひとたちの才能溢れる日本語の物語たちは、僕の世界とはかけ離れた言語のように思えて、ノスタルジーが僕には抱くことが無理で、結局、読んでも心の中に入って来なかった。

ぼんやりする。
本を読んでもぼんやりする。
心がぼんやりする。
ぼんやり、漠然。

漠然───砂漠

ところで、日本最古の辞書編者は誰だか知らないでいたので調べてみると現存する日本最古の辞書は、空海さんだった。

830年頃、時は平安時代の初期
中国に留学した空海さんが『篆隷万象名義』を編まれた。それを書写したものは、1114年のものが残っており、国の重要文化財に指定されて京都の高山寺に所蔵されている。

空海さんは僧侶としてのみならず、ハイパー言語学者だったようだ。

さて、空海さんの思想といえば、真言宗。
空海さんの言語学者としてなのか僧侶としてなのかはさておき、思想のキーとして、
法身大日如来が説法する
というのがあるようだ。
これは、仏を源流としてひとの言葉が生まれるということのようだが、聖書のロゴスと似たり寄ったりでもある。
存在論的には西洋の存在論も東洋の存在論も《言葉》を基点としているのが面白い。

それほど《言葉》の伝承、口伝や書写、あるいはパロールとエクリチュールは形而上学的事件なのだろう。

《言葉》はシニフィアン(signifiant/音、文字)とシニフィエ(sinifie/イメージや概念)という2つが結びついたシーニュ(signe/記号)であり、それによって社会で共有する記号の体系として言語(ラング)が成立し、コミュニケーション(パロール)の中で現前化される。

人間は、「シーニュ」という「概念の単位」によって、現実世界を切り分けている。(詳しくはソシュールを当たって欲しい)つまり、シーニュがある日突然喪失したら、存在そのものが不安定になるかもしれない。逆に言えば、シーニュによって己を何かの世界と結びつけておきたがるのは、そこが起因していたり、なんらかの作用を及ぼしているのかもしれない。

この記号コードを生み出した最初のひとたちは世界と結びつきたがる傾向にあったのだろうか。いずれにせよ、形而上学的事件の目撃者でもあるといえようか……。

集団での狩猟から農耕による土地、領土という概念が生まれ、その流れの中で自然に彼らは形而上学的事件を引き起こしたのだろう。

古代文明のひとたちで時間を持て余す貴族らに相当するひとたちは辞書を編もうとしたのではないだろうか?

夜が朝に侵食される頃、壮大なロマンを秘めた赤銅の満月に照らされながら妄想していた。

博愛の天使について考えていたはずなのにソシュールになっていた。
漠然とした気持ちで春の砂漠の朝日を見ながら思いついた話だ。
でも僕は博愛の天使には不向きかもしれない。
暖かい陽の光に怯えて夜にしがみつこうとして遠吠えをする。孤独な砂漠の狼。本当は陽の光を浴びて目を瞑り、太陽に愛されていることをこの肉体すべてで感じていたいのに。

花園の下で満月が過ぎていく。
朝だ。

川上未映子さんの新刊に夢中で、時間があればコツコツと地道に国語と漢字辞書を引きながら読んでいる妻。なぜか彼女に『小さなことばたちの辞書』を読んで聴かせてあげたいと思い、英語版を買った。

「“Before the lost word, there was another. It arrived at the Scriptorium in a second-hand envelope, the old address crossed out and Dr. Murray, Sunnyside, Oxford, written in its place.”」(The Dictionary of Lost Words: A Novel by Pip Williams)

新しい物語が読めるかわからないけれど英語ならなんだか抵抗がない。

砂漠の花園に言葉の水が流れる朝もあっても良いかもしれない。
水面に映る朝の月影、優しい光。

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