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Memoirs of Hadrian

回想とは、過去あるいは歴史における己の生への賛歌だろう。
誰かの頬をつたう涙はその讃歌のためのものかもしれない。
突き詰めるとそれはさまざまな種類の愛の希求や欲望かもしれないけれど。

フランス文学者マルグリット・ユルスナールの書いたローマの皇帝、ハドリアヌスの伝記小説。
私は須賀敦子さんのエッセイから誘われるようにして読んだ。

私は東方綺譚しか読んだことがなかった。
流れる水のように想像力を働かせて小さな寓話たちが幻想の花を咲かせて見せているような印象を覚えている。一言で言うならば、シノワズリなのかもしれない。

悠久の時を超えて、私を静かに、1人の男の人生に没入させる。

おそらく、私が今置かれた状況でなければ、あと10年、あるいは20年ほど過ごさねば、この小説──ひとりの男の人生と希望を託す自己中心的な想い──を理解できなかったかもしれない。

本との出逢いとは、ある日突然やってくる。
それはフィクションかもしれないしノンフィクションかもしれない。

いずれにせよ、私たちの叡智の結晶、言葉は響きを持つ。
同じ言葉でも、心の琴線に深く響きわたる時もあれば、気まぐれに通り過ぎてゆく時もある。

他者の劇的で静かな終焉を迎える人生の物語というのは、その最たるものに思える。

ハドリアヌスが死を予期し、後継者へと手紙を書き連ねる。

我が人生、悔いなし

とでも言わんばかりに。

彼が絶大な信頼を置いた妻や気まぐれな愛の対象の美少年、オリーブの木陰、東方の砂丘……。

第14代ローマ皇帝、ハドリアヌス。

魅力的な男は権力を手にしたときも、水平線を見つめ続けようとしたのかもしれない。

──

Our great mistake is to try to exact from each person virtues which he does not possess, and to neglect the cultivation of those which he has.

—『Memoirs of Hadrian (FSG Classics)』Marguerite Yourcenar著

意訳
私たちの大きな過ちは、各人が持っていない美徳(道徳的美点)を引き出そうとし、持っている美徳を耕すように育むことを放棄することである。

──

Of all our games, love's play is the only one which threatens to unsettle the soul, and is also the only one in which the player has to abandon himself to the body's ecstasy. To put reason aside is not indispensable for a drinker, but the lover who leaves reason in control does not follow his god to the end.

意訳
すべての戯れ中で、愛の遊戯れは魂を動揺させる唯一のものであり、演技する我々が肉体の恍惚に身を委ねなければならない唯一のものでもある。酒飲みにとって理性を捨てることは不可欠ではないが、理性に支配されたままの恋人は、最後まで神に従うことはない。

──

情熱に絆された何かの深淵を小説が開示してくれた瞬間にも思えた。

今回、出張先で英語版でしか読めなかった。
日本語版も訳が美しいようだ。
いつかぴったりとした柔らかな革の靴を履いてギリシャを旅しながら原著で読みたい。

楽しみが増えた。

とるにたらないこと、けれども見失ってはならぬ大事なことというのは、ひとはさまざまに他者と交流し愛を知り、旅をするように年老いてこそ、優しい眼差しで提示することができる──異国の地で私はそのように思う。



2022年の本として何冊かあげるとしたら
本書とブロツキーのWatermark、そして須賀敦子さんかなぁ。

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