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苦手とは何なのだろう

蝶々のトラウマ

誰しも苦手なものってあると思うのです。
人間関係でも、動物でも、学生さんなら学科の科目などなど。

僕は実は昆虫がかなり苦手です。

子どもの頃は兄貴たちと虫取りしたり飼ったり、ファーブル昆虫記を夢中になって図書館で読んだりしたはずなんです。

子どもの頃、ザリガニを捕まえてきて、水槽の空きがなかった為、ふたつ年上の真ん中の兄貴が飼っていたオタマジャクシの放たれた水槽に二匹のザリガニを入れました。
子どもといってもまだ多分小学校低学年くらいの頃です。
翌日、水槽を見たら兄貴の飼っていたオタマジャクシが見当たらず、ザリガニは結構元気そうにされてました。
で、兄貴がめちゃ怒ってケンカになった記憶があります。
バッタとコオロギ一緒に飼ってみたりだとか。

で、ですね。
こういう系統は平気なんです。
が、どうしても無理な昆虫がいます。

蝶々です。

蛾ではなく、蝶々です。

かなりのトラウマがあり、どうしても無理で、ひらひらと飛んできたら、かなり距離を開けます。

まだ蝶々が苦手ではなかった小学二年生くらいの頃、ちょうど今くらいの時期かもしれません。
モンシロチョウが僕の近くにヒラヒラやって来ました。
子どもなので、僕は捕まえようとしましたし、一緒にいたオタマジャクシの飼い主だった兄貴も狙ってました。

場所も光景もハッキリと覚えております。
夕暮れ時、シロツメクサの沢山ある由比ヶ浜の海浜公園、裸足でモンシロチョウを追いかけ、駆けずり回ってました。

しばらくしてすぐ近くでヒラヒラしていたはずのモンシロチョウが居なくなってしまい、諦めて帰ろう、と兄貴に言われ、渋々、帰ることに。
さすがに、裸足で由比ヶ浜まできたわけではなく、公園のはじっこにスニーカーを脱ぎ捨てていました。
何で脱いだのかは覚えておりません。
とにかく、スニーカーを履こうと足裏の土をパンパンっとやろうとしたわけです。
すると、なんか変な感触がして、足の裏を兄貴に見てもらうことに。
「あー!〇〇、お前じゃん!」
と兄貴が理不尽に怒りながら僕に言ってきました。
何で怒るのか分からず、足の裏を自分で見てみることに。
すると、見事に踏んづけられたモンシロチョウが足の裏に張り付いておりました。

それ以来、僕はあの時の感触が忘れられないトラウマとなり、蝶々が苦手になってしまったわけです。

理解できないものが苦手なものとなるのか?

踏んづけられた蝶々の方が、このクソガキ!理不尽すぎる、と怒りたいとは思いますが、僕も故意にやったわけではない。

とにかく、そうして、虫取りもあまりしなくなり、だんだんと接しなくなり、興味のあったものから理解できないものへと変わっていきました。

大人になって気がつくと、生き物の中で昆虫に対して、かなり苦手になっていました。

そうなんです。お気づきでしょうか?

接しなくなり、興味を失う。

理解できないもの≒苦手、不穏なもの
もちろん理解できない≒苦手、不穏というのは物事によりけりです。

これは、何も僕の昆虫体験談だけでなく、色々なことで成り立つ場合があるように思えませんか?

子どもの学習で、例えば、算数。

僕の小さな友達も去年、小学校五年生でしたが、算数が苦手でした。小学校四年生になる前までは99の掛け算などスラスラ言えて、楽しそうだったんです。算数に触れて興味を持つまでの過程で、彼女に何があったのでしょうか?

小学校四年生の分数でつまづく子どもたちが一定数います。彼女もそのひとりでした。そして彼女は僕の大事な親友のひとりでもあります。

小学校四年生の分数でつまづくということは、もしかして、小学校三年生のところで混乱状態なのかも知れない。
そう思い、僕は小学校3,4年生のドリルを一緒にやりました。
分数のところでやはり詰まってしまい、パンを半分コにしたら、とか、りんごを3人でわけたら、とか実物で実演しながら、あるいはコインを使って、正解したらあげるなど😂

根気よく小学校五年生の夏、僕とその子は頑張ってみました。算数の見直しの際、国語もやろうと提案し、一緒に漢字ドリルやら音読をしに遊びに来てくれました。
テストの点数も驚異的に上がり、本人はもちろんのこと、僕も自分のことのように嬉しくなりました。
でも、テストが目的じゃなくて、人の気持ちがわかるようになったり、変な人に騙されないようにこれはこう、こう、って考えられるようにするのがお勉強の目的だよ、といつも言ってます。

今、小学校六年生になりましたが、何とかわかるらしいです。

ここで最近気づいたのは、信頼関係がきちんとあって、向き合っている安心感や子どもの目線でのお互いの理解が、何かを一緒に勉強する際、とても大事であり、それによっていくらでも子どもの能力は子ども自身で開拓されていく、ということです。

姪っ子自慢になってしまいました。

何が言いたいのか、というと、
興味深く論理的、科学的に考えると、苦手や不穏感が、不思議や好奇心へと感情的に変化し、やがて、理解へと繋がる
ということです。

マジョリティ/マイノリティ

インスタで繋がった方々が動植物の写真をストーリーに#生き物倶楽部 というハッシュタグを付けてあげてらっしゃるのを見ているうちに、僕も何となく真似して昆虫やら動物をストーリーにあげるようになりました。気がつくと、ストーリー用に昆虫や小さな生き物を探しまくっている日常です。

ある時、シジミチョウがいました。僕はいつものように、ストーリーに上げたくて、息を止めて接写。蝶々が、今も苦手なのですが、前ほど苦手ではない気がします。

人と人とのコミュニケーションも同じかも知れません。マイノリティーの方々と接したり、時事問題などを調べてルポを読んだり、報道を追ったり。
知ることがやがて理解に繋がる、そんな気がします。

人間は自由である反面、常に不安を抱えながら生きている。
実存主義とは何か J.P.サルトル

そんなことを『実存主義とは何か』でサルトルが言っていたことを思い返します。
また、『存在と無』で、こうも言っています。

意識はまったく空虚なものである。何しろ、世界はすべて、意識の外にあるのだから
存在と無 J.P.サルトル


不安、不穏感から逃れられない宿命ですが、そこから生まれる好奇心などから意識のベクトルをほんの少し変えることで、ちょっと違う世界の見え方ができると思います。

当たり前の話ですが、なかなか僕は理解に繋がる前に遮断したりもしがちなので、ここに書いて残してみました。

自分で作ったり作る垣根は案外簡単に取り外せるものかも知れません。
知らないことからくる偏見、信頼関係の構築の基盤のなさからくる不穏など、一旦傍に置いて接してみるのも時には良いかも知れません。

あとがき

生き物倶楽部の部長
コニシ木ノ子さん


副部長
アサミサガシムシさん

おふたりとも虫に詳しいだけではなく、近代日本文学も読み込んでいて、素晴らしいな、と思うのでここで勝手に推しておきます😂

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