見出し画像

『戦争の悲しみ』 バオ・ニン

寒波がやってくる少し前、集中して本を読みたくて、近所のカフェに立ち寄った。
ヴェトナム戦争のあった頃、17歳から23歳までヴェトナム人民軍(DRV)に従事した作家バオ・ニンの恋愛小説のようでもあり私小説的でもあり、それでいて社会に開かれた小説──『戦争の悲しみ』を読み始めた日。

僕は正直言ってとても戸惑った。
ヴェトナム戦争終結は第二次世界大戦よりも「今」からさほど遠い昔話ではない。
妻の祖国も戦争中でもある。
出張から帰って来てあまり憂鬱な話を彼女にしたくない。
それに曽祖父が夜中によくうなされていたことも覚えてもいる。
だから読みたいとは積極的には思えなかった。

小説のはじまりは、ヴェトナム戦争終結直後、ジープにゆられる主人公キエンがぬかるんだ道を集魂の森へ向かう描写だった。乾ききっていない水たまりに孤独な魂たちが冷たい夜を彷徨うのだろうか。

乾季といえばタイ、バンコクのソンクラーンを思い出す。東京とあまり大差ないバンコクの街。焼けつくように暑く、至る所に在りし日のラーマ9世の大きな白黒写真が掲げられていた。街の中は行く先々で兵士たちが治安のため銃を携えて配置されていた。2017年の4月、僕が23歳になる年だ。

その年の水かけ祭りソンクラーンはそれほど派手にはされておらず、少しがっかりしながらも僕は友人とシーロム駅で合流し、お寺だけ観光して、そのあとはチョンブリー、パタヤへ移動して2週間近くふたりでビーチに寝転んだ。

ビールは氷が入っていて薄まっていたけれど、暑さのせいか気にならなかった。

パタヤからカンボジアとヴェトナムに移動することもその時考えていた。
けれども、当時、タイ南部とカンボジアとの国境付近は国境紛争の最中で治安が良くなかったため、パタヤからおとなしくアユタヤを回ってバンコクに戻り、フィリピンのマニラの親戚に会って、日本に帰国した。

カンボジアとヴェトナムを見ておきたかったのは、戦争映画の影響ではなく、フランス人作家マルグリット・デュラスの『ラマン』が好きで、メコン川を船で渡ってみたいと思ったから。ただそれだけだった。

うだるような暑さの中でメコン川を渡りたかった。

メコン川の支流の果てにバオ・ニンの小説『戦争の悲しみ』の中心的な舞台となる集魂の森がある。

デュラスに──須賀敦子の(須賀敦子全集第四巻『北の愛人』書評から)言葉を借りれば──「雨に洗われた宝石のような美しい」エクリチュールを羽ばたかせたその情景は数十年たつと、フランスの侵略戦争とアメリカの軍事介入によって残虐と渇いた涙の血の光景に変わり果てた。

1945年に日本が敗戦前、フランスの占領を解放し日本軍が治安をしていたが、敗戦とともに、ホー・チ・ミンが政権を取り、中国の支援を受けるも、フランスが侵略戦争を起こした。東西冷戦下では東南アジア一帯の共産化に繋がるとアメリカが懸念し、軍事介入する。
そこから周知のとおり、現地では、抗米戦争と呼ばれるヴェトナム戦争が始まった。
1955年から長きに渡るこの戦争が終結したのは1975年4月30日。
20年間、血が流れたことになる。

考えてみると、これは第二次世界大戦よりも期間が長く、解説でも書かれているが、局地的な第三次世界大戦と言えるのではないか?

しかしながら、第三次世界大戦とは言われず、いまのウクライナ・ロシア問題になってから、第三次世界大戦の懸念、と言われることに違和感を覚えた。

ヨーロッパが戦地となると注目され、アジア圏やその他地域の紛争は後回し的な印象が浮かび上がる。

もちろんヴェトナム戦争は世界的に反戦デモが起こり、アメリカ軍の撤退も世論を受けてのことでもある。

なぜ二十年もかかったのだろうか?

植民地であった国々は、植民地時代が終わり、その土地から侵略国家が消えると、紛争が起きている。

ルワンダジェノサイドやそのほか現在進行中東アフリカでの紛争などがいい例だろう。
ミャンマーは?

そして、どの国もヨーロッパでなければ国際社会の介入が遅れている。

ヨーロッパだからといってはやく停戦に向けた行動がとられているわけでもない。
いまのウクライナとロシアの問題はドイツ「帝国」が介入を躊躇しアメリカは何とも頼りない。エネルギー問題を抱えてドイツはロシアに強く出ない。

一部の先進国の利害関係上、人道的に許されない行為をストップさせるのが遅れる、というのはあまりにも理不尽な理由で、これはどの紛争でも当てはまるのかもしれない。
ミャンマーに至っては、日本政府がはっきりとした対応をとっていない。

そうした中、青春の真っ只中を犠牲にして、殺戮し合う紛争地域の兵士たち。
終結後に自分自身を見失わずにいられる方が奇跡に近いかもしれない。

あまりにも無惨に何もかもが奪われていく、というのを長い期間強いられたら、必ず生き延びたとしても、生涯癒えることのない傷を土地にもひとにも残す。そして、傷が癒える土地がなければ当然のように、ひとは愛する力が尽きてしまう可能性が非常に高い。

バオ・ニンは17歳ー23歳までを過酷な状況で生き延び、その生きながらえたことに使命を見出した。

そうしたひとはかなり稀なケースかもしれない。

曽祖父は10年以上軍人だったが、やはり心に深い傷を残したのだろう。戦後50年以上、戦時下でのことに一切口を閉ざした。
多くの戦争経験者の方々は、もしかしたら曽祖父のように話せない、話したくないのではないだろうか。

どんなことがあっても、生き抜きなさい

それが曽祖父が戦争のことを僅かながら語ってくれるときの締めくくりの決まり文句だった。

「生きて帰ってこれた」ということに、バオ・ニンが使命感を持つのは非常に自然なことでもある。
けれども、それを書く、というのはとてつもない精神的な痛みを伴うのではないだろうか。

ジープにゆられて、集魂の森へ遺骨を拾いにゆく主人公、キエンがフラッシュバックのように戦時中のことでうなされるのを読み、僕は曽祖父がよく夜にうなされていたのを思い出し、涙が止まらなかった。

キエンを送り出すひとは、いま戦争や紛争地域で軍隊に入隊する若いひとたち、抵抗することの難しさ、反対することの難しさ、声を上げるのも戦況を見るのも辛いひと、考えの違いから仲違いする家族や親戚そのものの象徴にすら思えて読むに耐えなかった。

ところで、ひとは何か不条理なあるいは予期しなかったことに遭遇すると、それがエントロピーの閾値のようになることがあるかもしれない。
キエンにとっては生き延びたことが、「使命」となったように。

信じなかった者が信じざるを得なくなったがゆえのすれ違い。不条理を起点としたすれ違い──キエンと儚い青春の愛を誓ったはずのフォンとの関係性でも見受けられるように思う。
このすれ違いは、『情事の終り』グレアム・グリーンのサラとベンドリックスの神を通したひとつの事の顛末にも通じている様に思う。

何だろう。
信仰心がなかったとしても
愛する者の死に直面したら
祈ると思うのだ。

『野火』 大岡昇平著ともどことなく似ている。
バオニンはキエンに、生き延びた使命を見出した、と言わせている。
使命を見出す≒宗教的には神を見る、感じることに繋がっているように思えた。
野火でも教会が見える場面がある。

僕が言いたいのは、キリスト教がどうとかこうというのではなくて、

使命を見出す、あるいは神を感じる瞬間

というのはある種の思い込みかもしれない。
でも、場合によっては、それによってひとは再び立ち上がれたりもする。
傷が塞がるかどうかはわからない。
戦争の傷は曽祖父を見ていたから、
敵味方によらず、最前線にいたひとたちは一生消えないと思ってる。

でも全きひととして、立ち上がる原動力になるならそれで思い込むというのもやっぱり必要なのかもしれない。

ただし、他人に左右されることなく
自分自身のコアをしっかりと持ってること
が条件だとも思う。

誰かの評価を気にしたり
誰かに嫉妬したり

そういうのは人間なら
当たり前の感情でもある。

けれどもコアがちゃんとあれば
自分は自分、比較対象は自分しかいない。
自分の中のエントロピーの変化がどれくらいあったか?
昨日と今日、去年と今年、
自分自身がどれくらい変化したか?

でしか、極論、満足できないと思う。

他者との比較は物事によっては
必要なケースもある。

でも、大抵のことはそんな比較は
とるにたらないことで馬鹿げてる。

ルサンチマンに陥ると
そこを気にして負のスパイラルから
脱却できない。

ヴェイユの《重力》とも言えるのかもしれない。
だから逆らい続けて個の中を《真空》にしないといけない。

ヴェイユで共感できる箇所は多くあるが、一つ取り上げたい。

神が我々を愛しているから、
我々も神を愛さねばならぬのではない。
神が我々を愛しているから、
我々は自己を愛さねばならない。
この動機なしに自己を愛せようか。
『重力と恩寵 』シモーヌ・ヴェイユ

自己を愛し抜き、他者の存在をありのままに受け止める、それが「人間」の愛の本質かもしれない。

カフェでジープのシーンを読んでいると、後ろの席に大学生らしき男たちがふたりやって来た。

感傷的になって読んではいけない、と思い、僕はしばらく、本から窓に視線をずらして海を見た。

1ヶ月に2、3回しか逢えない彼女についての相談を彼らのうちのひとりがし始めていた。

誰かを愛している、それってとても素晴らしくて素敵なことだ。
あまりに過酷な状況が続くと「愛する」、「赦す」力が失われていく。

失われるのだろうか?
忘れるのだろうか?

満州に7年前後いた曽祖父は生きて帰ってきて、お見合い結婚をした。
普段は寡黙でいつも庭を見ているだけだった。長い時間がかかったけれど、ひ孫の僕らに僅かだけれど、過酷な状況を子どもたちに当たり障りないよう、アオ(騎兵連隊だった曽祖父の騎乗した馬)の話を交えて話してくれた。

あの作家の胸を蝕んできた悲しみは、作品に見る限り、どうやら私のそれよりもはるかに重症だ ったそれには多くの原因があるのだろうが、彼の悲しみは現在を生き抜くことで軽減できるようなものではなく、逆に現在を生き抜くというまさにそのことを妨げたようである。 彼の戦後の日々は、絶えず過去へ還ってゆく日々となった。
彼の心には、確かに未来への希望が欠けている。その心理状況について、インテリの陥った逆説の迷路ペシミズムの袋小路などという言葉を並べるのはたやすい。しかし、彼は、過去へと果てしなく続く道を歩みながら、実は限りない幸せを感じているのだと私は思う。
『戦争の悲しみ』バオ・ニン

このセンテンスはキエン、あるいはバオ・ニン、あるいはその他大勢の敵味方問わず前線にいたひとたちは確かに抱くしこりだろう。
ひとによって、精神力の強さは当然異なるため、抱き方もその後の生き方も変わってくる。

多分、憶測でしかないけれど、僕の曽祖父は自分自身を決して見放さなかったのだろう。
それでもだんまりを決めていて、いつも庭ばかり見ていた姿をどうしても思い出さずにいられず、こうして書いている間も泣けてくる。

僕らが存在している。僕らが存在しているということは、愛することも忘れなかったのだと思う。

あまりに悲しい曽祖父の体験や気持ちを今はもう共有してあげられない。それでも、僕が聞いたことを次に伝えていけば本望だと思ってもらえるかもしれない。

2,3回しか逢えないことを嘆く相談に僕は何となく微笑ましくなって、涙をぬぐい、本を丁寧にカバンに仕舞って店を出た。

それから数日、何度も泣きながら読み進めた。
キエンとフォンたちのせいじゃない。
曽祖父や家族の故郷を重ねてしまって泣いた。
とても個人的な感情や感傷に任せた読み方になってしまった。

それでもバオ・ニンさんがいつか少しでも癒される日が来たら、と願う。
世界中のそんな経験をいま押し付けられているひとたちが今すぐ暖かい陽射しの中で、冬の寒さをしのぐ暖かい部屋で、大事なひとたちと子どもの頃のように笑って過ごせることを祈る。

寒波の朝、シーロム駅の友人がどんなだったか思い出そうとした。
バンコクは今きっと乾季だろう。



本書を紹介してくれたアサミさん、ありがとうございます。
とても一言では言い表せない読書体験になりました。
昨今の小説は私小説が非常に多い傾向があります。
私小説でもこうして社会に開かれたものというのはとても敷居を低くして色々なひとたちが読みやすくそして深く社会や過去の忘れてはならぬ歴史を知る機会になると思います。
日本文学でもこうした良い小説がたくさん増えてくれたらなぁと、どこか寂しさを感じながら思いました。
さまざまなひとがこの本を読んで各々に感じて考えてみて欲しくなりました。

この記事が参加している募集

読書感想文

いただいたサポート費用は散文を書く活動費用(本の購入)やビール代にさせていただきます。