偶然と必然、偶然と運命③日記 蚕を飼ってみたい
「シモーヌちゃん、今年の誕プレ、俺蚕が良いんやけど」
僕は妻のシモーヌ仮称大佐の機嫌が良いと見込んで、夜、そう切り出してみた。
「カイコ?なにそれ」
シモーヌは虫が大の苦手である。
僕はモンシロチョウ以外、どうにかいける。
彼女はモンシロチョウどころかアリすら無理だ。
モンシロチョウが苦手な理由は以前書いた。
──
ある日の夜、娘のリサ仮称少尉を抱っこしてテレビを観ていると、風呂場から大佐の絶叫が聞こえた。
「ウワァ!サルトル仮称!もうヤダ!来て、はやく!!!」
尋常じゃない叫び方だった。
僕にとっては、大佐と少尉は宇宙でいちばん大事な人たちだ。
それで、僕は少尉を抱っこしたまま、風呂場へ駆けつけた。
素っ裸で立ち尽くし顔をこわばらせた大佐の目は一点を見つめている。顔面蒼白といっても過言ではなかった。
「何?どうしたん?」
僕は大佐の視線を追った。
風呂場の窓のサッシに一匹の蛾が呑気に迷子になっている。
「何かと思った。蛾かよ」
「かよって、無理、無理すぎる、もうお風呂入れない」
「そんくらいで騒ぐな笑」
「もー、はやくどうにかして!」
蛾を僕はそのとき、ぱちんっとして排水口に流した。
僕の良心はこれっぽっちも痛くなかった。むしろ、大佐の役に立てたこと、大佐が風呂に安心してゆっくり入れることに貢献した姿を少尉にも見せることができて誇らしいくらいだった。
正義の味方で白馬の王子と呼んでいただきたい、とすら言い出しかねないほどに、徳を積んだ気分だった。
「ありがとう……。もういいよ、下がって」
姫がそういい、我々の任務は一時解かれ、再び、少尉とともに、ソファでふんぞり返ってテレビを観ていた。
理不尽で無残な非業の死を遂げた蛾──名をロドリゲス、としておく──のことなんて、そのあと全く考えることもなかった。
ロドリゲスは今思い出してみると、エジプト付近のどこかの小さな国出身で落ちぶれた歩兵隊長のような風貌だった気がしてくる。
ロドリゲスには、密かに想いを寄せる幸子という女がいた。
幸子は王家の娘であり、父はツタンカーテンという王だった。
美しい幸子にロドリゲスは夢中だった。しかし、身分違いの恋は許されない。
羽の色で身分が分かる。
ここ日本とは違い、ロドリゲスたちの王国では、厳しい階級社会だ。
子どもの頃はどの子も一緒で同じ食卓を囲み、その日その日の遊びや隣近所のアブラムシさんご一家の勇姿の話で盛り上がったり、どこかのちびっ子に巣を壊滅的に水で破壊された隣町のアリンコ一族の悲劇などで悲しんだりもした。
蛹になり、長い眠りにつくと、みんなそんな小さな頃の分け隔てなく遊んだことを忘れかける。
眠りから目が覚めると、手足の脇に、ある者は沢山の煌びやかな金粉を、ある者はおがくずのような粉をまとう羽が生えた。
ロドリゲスが長い眠りから目を覚ましたとき、じっと見つめる幼馴染の幸子の優しい目と、羽に伝わる彼女の触角の感覚があった。
ロドリゲスの羽は地味な茶色で、幸子のそれは美しい煌びやかな黄金の模様がいくつも曼荼羅のように広がっていた。幸子の胸と腹と尻は見事に膨らみ、柔らかく、ロドリゲスは勃起した。
「起きたのね」
「さち……こ……ちゃん?」
「私たち、あの頃とはもう違うのよ」
それだけ言うと、幸子はツタンカーテンの城へと舞い上がり、ロドリゲスは幾つもの危機を乗り越えなければならないただの芝生へと舞い降りた。
階級社会システムを一個人がどうこう騒いだところでどうにもならない。
ロドリゲスは、そう自分に言い聞かせた。
それでもやはり、ふと花の蜜を集めようとツタンカーテン城のそばを通りかかれば、幸子の横顔、幸子の優しい声、幸子の柔らかな胸、幸子の細い手足、敏感な触角、幸子の吐息、幸子の羽の擦れる音、幸子、幸子、幸子、幸子、幸子、幸子。満身創痍で頭の中の幸子コールを響かせる。幸子のことしか考えられなくなった。
自称ローマ帝国の末裔の蛾、カエサルがロドリゲスの前に姿を見せたのは、夕暮れも迫る、暑い1日の終わりの海辺を当てどもなく彷徨っていた時だった。
「幸子と結婚することにした。だから、もう、あまりツタンカーテンには近寄らないでほしい」
いきなりカエサルはそう言うと、幸子のいるツタンカーテン城へと舞っていった。
カエサルに常に襲われる幸子はやがてその羽に生気を宿さなくなっていった。
ロドリゲスはそんな光景を目の当たりに何度もし、気が狂いそうだった。
「さちこちゃん、俺と逃げよう」
許されないとは知りつつも、ロドリゲスは幸子を抱き抱え、夜の闇を駆け抜けた。
遠くに、灯りが見えてきた。
あそこで一旦羽を休めよう、そう言い合い、ロドリゲスは灯りが灯る窓辺にとまり、幸子は疲れたロドリゲスのために花の蜜を探しに行った。
窓がいきなり開き、女がその窓の向こうにいた。
窓の開いた向こう側にはいくつもの水滴があった。
喉の乾き切っていたロドリゲスは、水滴に誘われるようにして中へと入る。
女が叫び、男が入ってきた。
「そんくらいで騒ぐな笑」
「もー、はやくどうにかして!」
女は愛されているのだろう。
ロドリゲスは泣きそうな女をなだめながら、大きな瞳をあちこちに動かす男を眺めていた。
男と目が合った。
水が乾いた喉を潤していき、幸子にも分けてあげなければ、とロドリゲスは思い、幸子の不在を愛おしく感じた。
激痛が一瞬走ったあと、辺りは暗闇に覆われていた。
薄れゆく意識の中、ロドリゲスは必死に幸子のことを考えていた。
──
「カイコって飛べない蛾なんよ。でもぬいぐるみみたいに可愛いんよね。つがいで飼ってみたい」
大佐に僕はひとしきり、カイコの説明をした。
「いやいや、無理。マジで勝手にポチったら怒るから」
僕はカイコのロドリゲスと幸子をこの手に乗せてプニプニしてみたい。
そんなことはこれ以上話せる筈もなく、そこで会話は他の話題へと変わった。
正義なんて、誰にも決められないのだ。
時には人を奮い立たせ、時には寒々しい残酷と理不尽さの深淵を垣間見せる。
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