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西へ ② シュールなフィボナッチ数列

渡航から10日間の隔離生活6日目。

窓の向こうはいつも薄い膜を貼られているような風景だ。

安部公房の燃えつきた地図の数十年後──どの都市も4階建てどころか高層ビルが建ち並ぶ。
このホテルの部屋からも高層ビル群が見える。
視線をビルから下げていくと、時々行き交う人びとが遥かに下で点のように動く。その点は交差点らしきところで時には点ではなく曲線を数本作っていたりする。

彼らは会話なんてすることもなく、皆、孤絶をあの薄い膜で包んでいるように見える。これといった特徴もなく、迷う意味も失踪する意味も彼らにはなさそうだ。
失踪したところで、いなくなったことにすら誰一人気にしないだろう。

SNSはそうしたことが顕著な空間でもある。
他人の顔のような仮面をいくつも持ち、ある日失踪する。
他者にはその存在自体が虚ろなものでしかないから、誰も気にしない。
虚ろなるものに名前を与えたところで壁が現れて茶番劇が映し出され、仮面の演者たちは舞台を立ち去ると共に消える。《帰る》あるいは《逃げる》、とも言える場合もあるかもしれない。
いずれにせよ同じことかもしれない。

《名前》を付けるその瞬間や名前を呼ぶのも呼ばれる声を思い出すことがいかに崇高なことか。

ぼんやりとそのようなことを考えながら、ここに来た日のことを思い出していた。

成田から出発して5時間後、空港のタラップから一方通行の通路を通り必要な手順を把握して2時間強で隔離ホテルへ向かうバスに移動。成田とは違い完全に隔離されているのが印象的だった。
ホテルへ直送される外国産の野菜みたいな気分になった。
ホテルはクラスを指定できるだけでどのホテルかまでは実際に着いてみないとわからない。
不安というより少しワクワク感があった。

バスでの移動中、夕暮れになり、高層ビルの灯りが一斉に灯る。
この国の勢いのようにも思えた。

バスが某省のとあるホテルに到着し、順番に降りる。僕のときは乗客員は全員外国人。
車内待機中、窓の外からホテルの外観をみると、渡航者専用の隔離ホテルに指定されている高層ビジネスホテルのようである。

僕は中クラスを指定したのだけれど、そこそこ当たりだったようだ。

僕が降りる番になり、キャリーケースや手荷物を携えてホテルの玄関前へ。

防護服を着用した職員の方々が塩素でそれらを出迎えてくれた。

とにかく徹底している。

日本にいるよりコロちゃんにかかりにくい環境かもしれないのは確かである。

防護服を着たホテル従業員にルームキーを渡されて、ロビーで少し他の渡航者たちと話をした。
その日のこのホテルへやって来た渡航者たちは、ヨーロッパやインド方面から来たビジネスマンたちがほとんどで、東アジアからは僕だけだったようだ。
どこから来たかと尋ねられ、日本と答えると皆驚いていた。中東から来たと思われていたようだ。

部屋までは全てビニールでどこもかしこも覆われて、塩素臭がする。
案内された部屋に入ったら、そこから一切勝手にドアを開けてはいけない生活が始まった。
部屋に入っても塩素臭は漂っており、僕は持って来た香水を至る所にかけた。

インターホンが鳴り、僕はドアを開ける。
夕食の弁当が配膳されていた。
防護服が遠ざかっていく。

数日、誰とも会わないなんて状況は初めてであり、本を読むのもなぜか集中できない。

あろうことか、安部公房ばかり10冊前後持ってきている。

安部公房の世界観と、この今の状況があまりにもぴったりとしすぎでもある。

日常とかけ離れた空間───僕の今の「日常」

仕事をホテルの室内で行う。
閉鎖された空間での規則正しい仕事は集中にムラがあるのが手に取るようにわかる。
バッハの音楽が心地よく聴こえていたはずなのに不気味なほどの異常な規則正しさであることを僕は知ってもいる。───もうひとりの僕が頭の片隅でこう言う。

「家族よりも自分の欲望を優先させたからここにいるんだろ?」

そうかもしれない。還元できればそんなものはチャラになるかもしれないし、ならないかもしれない。たったニヶ月じゃないか。

けれども、二か月の間の娘の成長は途方もなく、それをそばで見るべきだし、今しかそれは見れない。

他人からしたら、幼稚極まりない葛藤だろう。

データ通信量を気にしながらInstagramを開いて他人の日常を覗きながら僕はそれがすりガラスの向こう側の蜃気楼であることに唖然とする。

そこに広がる全ては無機物であり有機物。

視点の違いでしかない。

サティを聴きながら、安部公房を読むと、すりガラスの向こうに広がるモノトーンの風景を眺めているような感覚を覚える。

無機物と有機物───僕は有機物が欲しい。

今は何月何日だ?
11月18日──11月17日の8割をコピーしてペーストした空間。
2日間の事象を微分して、共通する何かを除外し、再度積分すれば、きっとフィボナッチ数列的規則が見出せるだろう。

ただし、nは日付とする。

花びらの枚数、あるいは、シマウマの縞模様やヒョウの点模様がフィボナッチ数列に則っているように、どのような状況であれ、日常は美しい比率になるのが自然界での規則だ。

非日常トハ日常、規則ハ暴力装置ニヨッテ壊シテハナラヌ。キソクハボウリョク……。

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