見出し画像

大河ドラマ「光る君へ」平安時代中期のイメージ雑感

大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部や清少納言、藤原道長が生きた平安中期の貴族文化が描かれている。
ドラマの鑑賞の背景知識を整理するため、平安中期とそこに至るまでの時代のイメージをメモしておく。


平安中期はどんな時代?

平安中期は、日本人が「日本らしい」と思うものが、割と出そろってきた時期と言える。
これにはちゃんと歴史的な理由がある。

実は平安初期までは、奈良時代までと同じように、中国風の風習が京の都を彩っていたようだ。
そんな平安初期と平安中期を分ける境となった出来事がある。
学校で「白紙(894年)に戻そう遣唐使」と習ったことがあると思うが、右大臣菅原道真公が荒廃した中国の唐に見切りをつけて遣唐使を廃止した年である。

これ以降は大陸との交流が途絶え、中国からの文化的影響が弱くなった。
その反面で日本独自の文化が花開いていくのである。
これが国風文化と呼ばれるものだ。


中国風の服装から和装へ

例えば、平安の服装といえば十二単が有名だが、実は平安初期には十二単はまだなかった。
平安初期の人物と考えられている歌人、小野小町は中国風の服を着ていた可能性が高い。
小野小町はその雅な和歌のためか、あるいは平安美人の代表というイメージのためか、十二単を着ている姿で描かれることが多いが、これは嘘だ。

典型的な小野小町のイメージ

実際、時代ごとの装束をまとって京都の街を練り歩く時代祭では、小野小町に扮する女性は中国風に着飾っている(コチラを参照されたし)。

ちなみに、時を遡って飛鳥時代の聖徳太子にも間違ったイメージがある。
聖徳太子の絵画をみると笏(しゃく)と呼ばれる棒を太子が持っている様子が描かれているが、これは後年に作られた間違ったイメージだ。
笏を持つ習慣は、太子の活躍した時期よりも100年くらい後に唐から伝わったものなのだ。

典型的な聖徳太子のイメージ

紫式部や清少納言の活躍した平安中期には、さすがに十二単が登場していたようだ。
吉高由里子やファーストサマーウイカが雅に着飾っているのは時代考証的にもたぶん大丈夫。
安心して、大河ドラマの美術スタッフさんが心を込めて作った衣装を眺めよう。


三筆から三蹟へ

書道にも国風文化の影響が見られるようになる。

平安初期には、三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)と呼ばれた書道の達人たちがいたが、彼らは中国書道の影響が強かった。
中国の東晋時代の王羲之唐の顔真卿はいまだに書道の手本とされる(その名を冠した教科書もAmazonで買うことができる)が、こういった中国書道の影響から抜け出すにはまだ時間がかかった。

「弘法も筆の誤まり」の弘法こと空海

それが平安中期には三蹟(小野道風・藤原佐理・藤原行成)と呼ばれた和様の書道の大家が出現する。
花札にも描かれている小野道風は国風文化を体現するような人物で、生まれたのがまさに遣唐使廃止の894年なのだ。

花札で唯一の人物絵である小野道風

ちなみに、花見で桜を鑑賞するのが通例となったのは平安初期のようだ。
前述の三筆の一人である嵯峨天皇が、812年に宮中附属の神泉苑で桜の花見を催した。
これがきっかけで桜の花見が一般化したとか。

それまでは中国文化の影響で、花見で鑑賞するのは梅が一般的であった。
実際、奈良時代に編纂された万葉集では梅を詠んだ歌が110首に対して桜を詠んだ歌は43首だという。

梅の花

それが平安時代に編纂された古今和歌集では梅を詠んだ歌が18首に対して桜を詠んだ歌は40首と、数が逆転しているのだ。

桜の花


なんといっても紫式部と清少納言

国風文化を体現しているのは小野道風だけでなく、やはり紫式部や清少納言は欠かせない。

女流文学者を沢山輩出したこの時期に、貴族の女性たちによって平仮名が使われるようになった。
この平仮名を多分に使って書かれたのが”光源氏の物語”であり、”春は曙”なのである。

この平仮名と女流文学者それ自体が国風文化を象徴する現象なのだ。


世間の狭い貴族たち

貴族は数百人ほどか

見てきたように、中国大陸の影響が弱まり、日本独自の文化が花開いたのが平安時代の中期であった。
服装・書・文字・文学など多方面で国風文化が盛り上がったが、これら全てがごく限られた人数の貴族の文化であったことは忘れてはならない。

圧倒的多数の他の身分の人たちを差し置いて、ごくごく少数の貴族が雅を謳歌していたのである。
例えば、都の上流貴族は寝殿造の邸宅に住んでいたが、地方の庶民は竪穴式住居に住んでいたという。

さてその限られた貴族であるが、平安の貴族は(時期によって上下はするが)だいたい数百人程度しかいなかった、とも考えられている(コチラも参照されたし)。
源氏物語や枕草子を読んだ平安貴族は、この数百人の貴族の中のさらに一部と考えると、紫式部や清少納言本人が存命中の読者は100人とかだった可能性もある。
世界に名だたる日本の古典文学も、当時は限られた貴族が内々のサロン(サークル)みたいなものの中で消費するだけの、内輪の趣味だった。


ゴシップとストレスの平安社会

狭い世間にはゴシップ的な噂話と陰口が付き物、平安貴族の人間関係はドロドロしてストレスフルであっただろう。
そのせいか、平安後期には俗世間の煩わしさを厭って、山で庵を結んで遁世する出家貴族も多くいたという。
その代表的人物である西行(平清盛と同時代の人物)は、以下のように嘆く。

世の中を 捨てて捨て得ぬ 心地して
都離れぬ わが身なりけり

紫式部の時代(平安中期)には、まだ山で遁世するのは一般的ではなかったようだ。
ただ、すでに出家する貴族は少なくなかったようだ(藤原道長も最後は出家している)。

ちなみに、平安中期までは政治的な理由での出家も多く、世間から離れるための出家は一般化してなかった模様。
しかし、もしかしたら西行の時代(平安後期)を先取りして、俗世間のストレスから逃れるために出家していた貴族もすでにいたのかもしれない、知らんけど。


参考文献

・ウェブ記事①小野小町の衣装新調、役務めた芸妓「うれしおす」…京都「時代祭」2000人の歴史絵巻 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)
・ウェブ記事②「源氏物語」の時代に恋愛が重要視された深い理由NHK大河ドラマ「光る君へ」で描かれる紫式部の人生 (東洋経済online)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?