『彼は早稲田で死んだ』を読んで思い出した学生時代の一コマ
私が九州大学経済学部に入学したのは1994年だったと思う。
最初のオリエンテーションの日、新入生でごった返すキャンパスに白いヘルメットをかぶってタオルで顔半分を隠した人が二人いて、ビラを配っていた。
それから数ヶ月して、どういう流れからか彼ら(男性と女性)と少し親しく付き合うことになった。二人とも先輩で、男性は医学部、女性は文学部だった。
もう名前は忘れてしまったが、男性のほうはおっとりした人で、女性のほうは少し気の強い感じだった。便宜上、ここではMさんとFさんと呼ぼう。
私は暇になると「自治会」と呼ばれるプレハブ小屋に出入りし、雑談したり、Mさんの弾くギターに合わせてハーモニカを吹いたりした。
また、休日にFさんに誘われて勉強会のようなところにも行った。勉強会には中年の男女が10数人集まっていて、落合信彦の新刊が手厳しく批判されていた。私は高校時代から落合信彦の信奉者だった(今は違う)ので、居心地が悪くて仕方なかった。
同級生やサークルの先輩からは、「お前、あそこに出入りしてて大丈夫?」「ヤバいグループじゃないの?」といったことを何回か言われたが、そのたびに「いや、悪い人たちじゃないですよ」みたいな返事をしていた。
あるとき、テレビでニュースを見ていたら、臓器移植法案(当時はまだ案の段階)に反対する座り込みデモが排除される映像が流れ、そのリーダー格としてMさんの姿があった。
そういえば、医学部生のMさんは臓器移植に反対だと言っていた。理由は、そんなことをしたら、なしくずし的に障害者の臓器を奪って移植する世界になるから。そんなことあるかな……?と疑問に思ったし、あれから30年以上たっても、そんな世界にはなっていない。
それはともかくとして、なんだろう、これは……、このグループに属していて大丈夫なんだろうか……、となんとなく不安になり、自治会のプレハブには顔を出さなくなった。その後、しつこく連絡が来るということもなかった。
いま思うと、ちょっと薄情だったなという気もするが、深入りしなくて良かったとも思う。学生運動の名残りみたいなものにうっすらと触れていたのかもしれない。
本書は、私が生まれた1975年ころの早稲田大学が舞台で、私が出会った名残り的学生運動よりもっと本格的な、しかし49歳の私から見ると「金に困らない坊っちゃん嬢ちゃんたちによるタガのはずれたごっこ遊び」にしか見えない、そんな学生運動の話。
著者は卒業後に朝日新聞へ入社し、本書では当時の敵(?)であった革マル派の大岩圭之助氏と対談している。
この対談が私にとってはとても良い内容だった。
大岩氏は革マル派の中でも武闘派的な存在だったようだが、ある時点で革マル派から離れ、大学を中退し、アメリカに渡り、その後は文化人類学者、明治学院大学の名誉教授となった。
そういう生きかたについて、なんらかの因果関係やストーリーを見出だそう聞き出そうとする著者は、いかにも新聞記者といったところだ。
そういう著者に対して大岩氏は、「そういう後づけの因果関係、ストーリーは、作ろうと思えば作れるだろうが、それはどこか嘘になる」「人はそんなに論理的には生きていない」というようなことを語る。
同級生を殺された著者の憤り、自身も革マル派に襲われ大ケガを負わされた積年の恨みには共感するのだが、大岩氏の言うことにもいちいち頷けるのであった。
さて。
医学部の先輩の行動を見てひいてしまった経済学部生の私は、あれから30年たったいま、どういう巡り合せか、医師として生きている。
M先輩は、どんな医師になられたのだろうか。あるいは、何か他の道を歩まれたのだろうか。
うすぼんやりと、想像だけする。