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問題は、「生命力」の過剰消費ではないか?

ぼくは以前(18/03/31)、「まつき」と名乗っていた頃のnoteで「病識を更新するということ。」を書きました。

今回は、その補足を書いてみようと思います。なお、この文は価格を再設定して22/07/14にURLを再告知しています。

また、診断を受けていらっしゃる方々には不快と思われる表現があるだろうことを、予めお詫びしておきたいと思います。

ぼくは2000年に「大うつ病(いわゆる、うつ病)」の診断を受け、病院・クリニックと医師を2回変えてきています。その3人めの医師が「双極性障害」ではないかとの疑いを持ちはじめ、4人めの医師に「双極性障害」として引き継いだと告げられました。実に17年かかっています。

双極性障害は、診断が難しい病気のようです。始めは、ぼくのように大うつ病の様相を呈するからです。ぼくの場合、何年もかかったのは、「躁エピソード」の事例が少なく、それを治療を要する状態として、適切に医師に伝えられていなかったことが原因だろうと思っています。

おそらく、なのですが、「これは躁エピソード!」と医師が判断したのは、震災の翌々年くらいに、ものすごい爽快感につつまれて、「もう病気は完治したし、再発することはない!」と色々な所で吹聴してまわっていたとを話したことなのではないかと思っています。その頃から抗うつ剤が減り始め、遂にはゼロになりました。

また、ぼくは過眠と短眠が交互に現れることに悩まされていました。過眠期には、食事はもちろん、トイレに立つことさえ億劫に感じられたものです。短眠とは、不眠が続いても支障がないとお考えいただければ結構です。それを今では、これから書くように「症状」として「解釈」し直して、ある程度コントロール(って言っていいのかな?)できるようになりました。なお、これについては、睡眠時無呼吸症候群の病態であることもわかってきました。

さて、そろそろ「生命力」という言葉についても説明をしておかないといけません。

生命力とは、「気力」と「体力」とが未分化の状態の、より根源的な力だと考えていただければと思います。気力が続くのには体力が必要ですし、その逆もまたしかりです。どちらが卵でニワトリかとは言い切れるものではありません。むしろこの気力と体力とは、現れ方・見え方こそ違え、「同根」のものと考えた方がいいと考えます。それが「生命力」という作業仮説です。

では、その生命力と「大うつ病」「双極性障害」とはどのような関係にあるのでしょうか。乱暴に言うと、大うつ病とは生命力の枯渇して貯まらないということ、双極性障害とは生命力の過剰な現れないし浪費、と言えるのではないかと思うのです。つまり、この二種類の症状を「生命力」という観点で見た場合、ベクトルが正反対だと言うことです。

双極性障害において、「躁」「うつ」の病態が入れ替わって現れるのは、「躁」の時に過剰消費ないし浪費してしまった生命力を、「うつ」的病態をとることで補充するということだと解釈できないかと思うのです。

これは比喩でしかありませんが、生命力にタンクのようなものがあったとすれば、「躁」の時にはそれとは知らずにアクセルを踏み込み過ぎて(というより、踏み抜いてしまって)生命力というエネルギーがあるサイクルで枯渇してしまう。

その「生命力」の過剰な現れとして、爽快感や万能感、浪費や濫費、攻撃的になる、性的に開放的になるなどの行動として現れてしまうのではないかというのがぼくの「解釈」です。こう考えることで、病態のコントロールへの一歩が踏み出せたように思っています。

今回は以上です。お買い上げいただき、誠にありがとうございました。

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