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【考察】本は再読するのがお勧めです。

こんにちは。

主催しているclubhouseの「100分de名著を語ろう」ルームのために、2021年10月度のテキストの1冊である『老人と海』(小川高義訳、光文社古典新訳文庫)を読了しました。

遥か昔、福田恆存訳の新潮文庫版を読んでいたことがあるので、これは「再読」にあたります。恥ずかしながら、初読時に抱いた印象めいたものは、「老人が苦労して釣り上げた魚だったけど、帰るまでにサメに食べ尽くされてしまう話」程度でしかありませんでした。なぜこれが「名著」とされているのかが、全くわかっていないままの再読だったのです。

ところがです。番組テキストの該当部分を読んでいたことも大きかったのでしょうが、今回は初読時とは、全く違った次元での読書体験を得たと言ってもいいくらいでした。そこで今回の稿を起こそうという気持ちになった次第です。おつきあいくださいますと幸いです。

なお、本稿は最後まで読めますが、一応課金をしてあります。もし、お気に召してくださいましたら、小遣いでもくれてやるくらいのお気持ちで、支払い手続きをしてくださいますとうれしく思います。

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活字離れ・読書離れが「喧伝」されるようになって、すでに久しくなった気がしています。むしろ、それが「常態」になってしまっているかのようです。

しかし、私のTwitterのタイムラインやらclubhouseでのルーム告知などを見ていると、読書についての話題が数多く見られます。本当に「読書離れ」なのかなと訝しく思ってしまいます。

それを裏づけるかのように、「読書論」「読書法」「教養について」といった新刊が、ラッシュのように発刊されています。少なくとも、読書についての「関心の高さ」はあるように私には思われます。

とは言え、同時に懸念もあると言わざるを得ません。それは、そうした「読書論」が、「いかに早く」「いかに多く」「いかに正確に」「いかに忘れずに」読むかということに、フォーカスされ過ぎてはいないかという懸念です。つまり、効率重視が度が過ぎてはいないかということです。読書とは、そうした「効率」とは相容れない部分があるのではないかということを、この稿を通して考えていこうと思います。いま、「再読」を勧めることは、そうした「効率第一」主義に異を唱える、象徴的な意味合いがあると考えています。それを私は、「たじろぐための読書」論として提案したいと思います。

まず第一に、人間の脳は、ある意味では一定程度「忘れる」ことが前提としてできているということです。忘れることを、過度に恐れたり抗ったりする必要はないと思うのです。

何となれば、単に(あくまでも「単に」ですが)記憶する「だけ」のことであれば、それは例えばUSBメモリとかに任せておいた方が、それこそ効率的というものです。記憶のため「だけ」であれば、本は読む必要はないのではなかろうかと思っています。もちろん、記憶が不要であったり、重要ではないと申し上げるつもりは全くありませんので、その点はお含みおきください。

ではなぜ、人は本を読み、あまつさえ私は「再読」することもまた、読書の愉しみであると言おうとしているのか。その意味を、「たじろぐ」という言葉としてご提案したいと思っているのです。

何に「たじろぐ」のか。それは、読んでいる自分自身の「変化」にたじろぐということです。これを体験的に捉えることができたのが、先に掲げた『老人と海』の再読体験での最も大きな収穫でした。

変化に「たじろぐ」とは、言い換えると、自分と自分を取り巻く環境の変化を受け止め、受け入れるということでもあります。少なくとも、その変化に対して、意識や態度、身体を「開いておく」ことだろうと思うのです。

本を一回「だけ」読んで足れりとすることは、こうした「開かれ」とは反するものであると考えます。廃しようとは思いませんが、一回「だけ」読んで終わりというのは、ちょっともったいないと思うんです。

初読時と再読時の印象が違うこと。それを楽しむこと。それをここではお訴えしたいと思います。「早く」「たくさん」「正確に」「忘れずに」「一回だけで」読むということは、初読時と再読時の「落差」が、限りなくゼロに近いことが望ましいとされているのではないかと思ってしまうのです。

人間は、否応なく変わっていく存在です。変わっているのであればこそ、初読時と再読時の印象や感想、学びが異なっているのではないでしょうか。そして、それをむしろ「愉しむ」ことは、より「生産的」であるとは言えないでしょうか。

再読しなければならなくなったことは、退潮ではありません。むしろ、内的な必然が招くものであると思います。全ての本を再読する必要などありませんが、「これは!」と思った本は、むしろ積極的に再読してもいいと考えます。逆に言えば、再読されることを要求してくる本こそが、「私」にとって必要な本なのかもしれません。

「次に読んだ時にわかればいいや」と、安易に再読に委ねることは慎まないといけないと思うのですが、やがて再読することが求められることを恐れたり、否定する必要もまた、ないと思うのです。

「再読」の必要を恐れないということは、変化を恐れない、つまりは「たじろぐ」ことを恐れないということと直結していると思われます。本稿を、「たじろぐための『再読』の勧め」として書いた所以です。もし、本稿を読んだことが、何らかの気づきにお役に立てていたのであれば、これ以上の歓びはありません。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!

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