見出し画像

聴く「ちから」を養うということ。

 こんにちは。先に投稿した通り、勢いで「はてなブログ」を作ってしまいました。アクセスはnoteの方がいいので、読書会についての「広報」機能の効率はよくないのですが、個々の記事の間の関連性とか、蓄積生と言った点ではブログの方が一日の長があると考えています。そこでブログ再登板ということになりました。分業がうまくできればいいなと思っています。

 このnote本文は課金対象としてありますが、全文を最後まで読める範囲として設定してあります。もしお気に召していただけましたら、投げ銭をお願いいたします。

 さて。

 今月下旬に、続けてきたオンライン読書会が満二年を迎えます。そこでちょっと、リニューアルをしたい、的なことを考えています。先のブログ新設というのもその一環であると思っています。今回のnoteは、そのラフを少し書いておこうというのがその主旨となります。

 おぼろげながら見えているのが三つありまして、言葉にすると、

①「聴く力」を養う読書会
②読書会主催者を見出す読書会
③ちょっと背伸びをする読書会

という感じになりました。これらを目指していきたいんですが、当面優先させていきたいのは、もちろん①の「「聴く力」を養う読書会」ということです。

 私は確かに読書は好きですし、読んだ本について話しを交わすことも大好きです。ですので、自分の生活に読書会という「方法」を取り入れているわけですが、あまたある読書会に、もう一つ名乗りをあげるのなら、何か「根拠」となるものもほしいわけです。オリジナリティとか、差異化とか、「売り」とでもいうのでしょうか。

 かといって、読書会の「主催者」になりたかったということではありませんし、頭を捻ってこの「聴く力」ということにたどり着いたということでもありません。以前から薄々感じていたことに、言葉を当てはめてみたというと出来すぎですが、ああ、こういうことをしたいんだろうなあという自分の内側の声に耳を傾けた結果として、この「「聴く力」を養う」ということにつながったのだと思います。ですので、ここではこの「聴く力」、「聴く」ということについて少しでも書くことができればnoteとしては成功ということになるかと思います。

 さて、読書会に参加して、「ああ、今日はいい会だったなあ」と思うのはどういう時でしょうか? 私の場合ですと、「今日はたくさん、いいことが話せたなあ」という時ではなくて、むしろ「今日はいろいろといいことが聴けたなあ」と感じた時のように思います。

 もうちょっと突っ込んで言うと、「今日は深く聴き合えたなあ」と感じた時です。Aさんの発言についてBさんが引き継いで発言する際に、Aさんでさえ気づいていなかったことをBさんが発言する。「ああ、確かにAさんはそういうことを考えていたんだろうなあ」という、贅沢な沈黙が流れる。そんなことがあると、読書会はやってよかった、いや、「やれて」よかったなあと感じます(参照:内田義彦著『読書と社会科学』岩波新書。文末掲)。そんな風に「聴き合い」を成立させたいと考えています。

 ではどんな時に「それ」が成立するのか。それは、2つの職業が参考になると思っています。まず、①カウンセラー。そして②コールセンターのコミュニケーター。実は私は、カウンセラーについては初級産業カウンセラーという資格の講習を1年受けていたということがある他に、コールセンター勤務の経験もあります。ですので、以下に書こうとしていることは、極めて個人的に過ぎないことを無理やり押し広げようとする嫌いがありますので、その点は割り引いて考えてくださいますようお願いいたします。

 まず、読書会においてカウンセラーのように「聴く」ということについてから。私が講習で学んだのは、カール・ロジャーズ(1902~1987年)の「傾聴」という手法でした。これは、
①共感、
②受容、
③自己一致(自分の態度と感情とが矛盾しないようにする、くらいの意味です。違ってたらごめんなさい)
の三つを中心とする「聴く」方法のことと思っていただいていいと思います。

 これらの根幹を成しているものは、「クライアント(=話者)は自らの問題を、自ら解決する力を有している」という、人間への信頼であると思います。もちろん、この手法は万能ではありません。ある種の精神疾患では、その病相を深めてしまうこともあると聞きます。ただ、このように聴かれることは、話者の発言を促し、話者が話しながら自然と問題点を整理することができるという利点があるように思います。つまり、話者の発言を促す(押し付ける、ではなくて)ようにして誠実に耳を傾けることが、この手法の要であると考えます。自分が「触媒」になると言った方がいいでしょうか。まあそんな感じです。

 では次です。②のコールセンターにおけるコミュニケーターの「聴き方」が参考になるという点についても書いておきましょう。私の場合、もうちょっと具体的にいうと、PCのサポート系のセンターにおりました。そこで体験してきたことの一つは、「問い合わせをしてきている人は、自分が何を尋ねればいいのか、伝えたらいいのかがわかっていない」ということです。これはもしかすると、医療の臨床の現場でも起きていることかもしれません。

 もう少し続けます。PCや身体の不調を訴える時、「何」が問題なのか、わかっていて問い合わせをしている方は少ないだろうと思います。たとえば、です。医師に胃の(辺り)の不快感を訴えるときに、よく「シクシクする」とか「チクチクする」って言いますよね。でも、これらの違いって、説明できますかね? 医師はその辺りを汲み取って、適切と思われる処方を書くわけです。考えてみれば、すごい能力です。

 なぜ「すごい」のかというと、医師がその不快感を、コミュニケーターがその不具合を「体験」していないからです。それでも「わかる」(あるいは、わかったように振る舞う)。ここでは、「わかる」とはどういうことかについての論は書きません。私の分を超えてしまうからです・・・。

 ところで、私は次のような言い方をよくします。「自転車に乗れるようになった人は、何で自転車に乗れなかったのかについてのことがわからなくなっている」。つまりこの、わかる/わからないの間には、大きな断絶があるということです。しかし、往々にして人はこの断絶をひょいと超えることができている。そこが不思議なんですが、これもまた別の機会に(汗)。

 で。

 コールセンターでのコミュニケーターの必須スキルの一つが、「問い合わせ内容を、回答できるような質問の形にして取り出す」ということなんです。それには、適切な「問い返し」が必要となります。つまり「お客様、それは◯◯ということでよろしいでしょうか?」等の問い返しです。お客様の「言いたいこと」「聴きたいこと」にヒットすれば儲けもの。話はそこで展開を見せることとなります。ある意味、お客様が言葉にできていなかったことを、先んじてまとめてさしあげるという作業をしていると言ってもよいでしょう。

 そろそろ3000字になるのでまとめます。私は、読書会の現場でも応用が効く「聴く技術」について、
①カウンセラーのように「触媒」となるように聴く、
②コミュニケーターのように、言わんとしていることをまとめながら(=引き出すように)聴く、
の二点としてまとめられるのではないかと考えています。

 最後に、これらは「センス」ではなくて「スキル」であることを、申し添えておきたいと思います。センスは先天的なものかもしれないので、努力でどうにかなるものではない。しかし、「スキル」であれば、一定の修練を積めば、後天的に、しかも誰もが一定程度身につけることができるのだと思います。それが、この文の表題として「養う」とした所以です。

 もちろんこれらは、2020年10月現在の「中間報告」ですので、時期が来たら書き直すことがあるかもしれないことを書き加えておきたいと思います。

 今回は以上とさせていただこうと思っています。最後までお読みくださり、誠にありがとうございました。ではまた!


■参考文献:内田義彦著『読書と社会科学』(岩波新書)

※ 思いがけず長文になってしまいましたので、あまり推敲などはせずに、このままでの公開といたします。不整合な点等がありましたらお詫び申し上げます。

ここから先は

2字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。ときどき課金設定をしていることがあります。ご検討ください。もし気に入っていただけたら、コメントやサポートをしていただけると喜びます。今後ともよろしくお願い申し上げます。