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【杜のラボ】いのちと生命を「観ずる」こと

こんにちは。5月2日(月)09:42です。昨日(5月1日)、第132回のオンライン読書会を開催しました。そこにご参加くださった方が「生命環境」という概念・アイディアを追求されていると伺ったところ、今まで考えていた「いのち」「生命」ということに関するのことばたちが噴出してきたので、それらをランダムに書き留めていきたいと思います。おつき合いください。

まず、「いのち」「生命」を以下のように仮策定しておきます。つまり、

周囲・環境との間で「情報」をやり取り・交換させていくことで、自らを変容させていくシステムの一種

ということです。どこから何が流れ込んで、これが形成されたのか、今となっては定かではないのですが、さしあたってこうしておいて進めていきます。

次に、「噴出」したことばを列記してみます。これらは順不同であり、価値的に「優先度」があるのではありません。

①私は私と私の環境である(オルテガ)
②生命誌(中村桂子)
③依正不二(仏教の考え方)
④いのちとことば
⑤生命力ということ
⑥「癒える」ということ

ま、今日はこんなことが書ければいいかなと思っています。以下に、各項目の記述・考察を加えてまいりたいと思います。

①私は私と私の環境である(オルテガ)

耳なじみのない「生命環境」ということばをうかがって連想したのが、『大衆の反逆』で知られるスペインの思想家・オルテガ・イ・ガゼットのこのことばでした。『ドン・キホーテをめぐる省察』からの一節らしいです。

この「生命環境」からは、生命「の」環境というよりは、生命「と」環境という感触を得ています。これになぞらえると、オルテガは「と」側に近いのかなと思いますが、「私」が「私の環境」と密接不可分であることを示唆しているのではないかと考えています。項目が多いので、先を急ぎます。

②生命誌(中村桂子)

1990年代によく読んでいた生命科学者であり、「生命誌」を提唱されたのが、中村桂子さんでした。その後の学問が、どこまでの達成をしているのか、不勉強で知らないままなのですが、記憶をたぐると、一つの細胞の中に収まっている遺伝情報の「全て」であるゲノムには、親と子の間で受け継がれる遺伝情報に留まらず、生命が発祥した46億年の歴史を全て織り込んでいるということを学んだつもりです。「一」と「全」が、相即で不二であることが示唆されていると思います。

③依正不二(仏教の考え方)

仏教には「依正不二(えしょうふに)」という考え方があります。まず、正(しょう)=正法とは、言い換えると生命の主体、依(え)=依法は環境であるとお考えください。肝心なのは、この二者が単に関連づいているとか、フィードバックがあるということにとどまらず、むしろ分かち難い「不二」の関係にあるという点だろうと思います。この二者は、同時に立ち上がると言ってもよい。その点、①のオルテガとも響き合っているのかなと考えます。

④いのちとことば

①から③は、既に存在していた考えのご紹介でしたが、以下は多少オリジナルで「乱暴な」考察が含まれています。お含みおきください。

ここでは、改めて「いのち」と「生命」、「言葉」ではなくて「ことば」を書き分けていることに注意を促したいと思います。この二組は、基本的には同じもの、同じ現象を指し示しているものであるはずなのですが、こうして見ると違った印象があることに気づくはずです。この語感の異なりは、大切にされていいと思っています。

まず、「生命」といった場合、それは生物学や生理学、医学が「対象」としていて、DNAとか遺伝といった実在や現象を思い浮かべるのではないでしょうか。

それに対し、「いのち」にはより「文学的」かつ「イメージ」的なものも含んだ表現であることが想起されます。次の⑤でも扱いますが、体力や精神力に「分化」する前の、未分化で、より根源的な印象が引き出されます。そして、「いのち」と言った場合には、「身体」「からだ」の輪郭を超え出ている拡張された印象さえ持たれるのではないでしょうか。

そして「ことば」には、コミュニケーションのツールとしての「言語」であることを超えた、というよりは、より人間存在の内奥に向けたベクトルを感じます。つまり、ぼくの考えでは、「ことば」は「いのち」に届き、「いのち」に交わり、「いのち」を耕すという作用さえあると言えると感じています(ここでまた、「感じる」と「観じる」に見られる違いを指摘しておきたいのですが、次以降の機会を待ちたいと思います)。

⑤生命力ということ

たった今、ぼくは「ことば」が「いのち」に届き、「いのち」を耕すと書きました。ここで「耕す」には、それを豊かにするという意味合いを込めています。

もう一度、いのちについて考えてみると、それは「場」であり「力動」でもあるのではないか。実在でありながら、分子などの物理的な現象に還元し切れない何かではないかと考えています。

「いわゆる」付きの西洋思想には、心身二元論が君臨していて、これによって、近代哲学や近代科学が勝利を収めたという「図式」が流布しているように思われます。つまり、「こころ」を「意識」として、「からだ」を「身体」としてとらえ、この二者はそれぞれに独立した原理で動いているという思想です。

しかしぼくは、「いのち」をこの二者のいずれかに分化させ切ることはできない、あるいは分離させるのは不合理であると考えるものです。少なくとも、実感にそぐわないのではなかろうかと思います。

こころ・意識とからだとは、相互に浸透し、侵食し合い、影響し合っているのが実情ではなかろうか。そして、この二者が「出会う」場こそが、生命であり、いのちなのではないか。そして、それが有する力が、「生命力」なのではないかと思うのです。意志の力や気力、体力に分類したり、還元しきれない、より根源的な力をして、「生命力」であるとしたいと思うのです。それゆえ、「ことば」はそこに届き、耕されるのだろうと考えます。

あと1項目です。がんばれ、自分。

⑥「癒える」ということ

こうした事どもに、ぼくは「信仰」と「病」の二側面からも接近してきたように思います。結びとして、それについて書いておきます。

まず前者について。③で既に触れていることから推し量れるように、ぼくは仏教を信奉しています。それについては一応ここまでとしておきますが、もう一点の「病」について書いてみます。

病んでいることを「売り」にするつもりはないのですが、ぼくは双極性障害の診断を受けている「当事者」です。また、二人いる弟のうちの一人は、統合失調症の当事者です。この、病んでいるという体験から、ぼくは「いのち」について考える足がかりを得ていたように思います。つまり、病んでいることですら、いのちの可能性であり、戦略なのではないかということ。そして、そこから「癒える」力もまた、いのちは有しているということ。

ぼくは健康至上主義ではないと自認しているつもりです。しかし、病んでいるのは、やはり辛く苦しいものです。そこから癒えていく力が、いのちに備わっていることもまた事実です。それは、ある種の凄まじさを伴っているものであって、例えばかわいらしいペットを見ての「癒される~!!」と言うのとは質を異としているように思います。ことと次第によっては、ある種の「死」を通過することでの「再生」を果たすことが、癒えるということなのだとも思えます。ですので、「真の癒し」とは、危険を孕んだものであると考えられます。大事なのは、「それでもなお」生きている、ということでしょう。

もう少し自身の信仰に引き寄せて考えると、「生」と「死」とは、近接しているものであるよりかは、むしろ表裏が一体のもので、その時々の「あらわれ」(=態)であるとさえ言えまいか。そこを考えてもみたいです。しかし、「生命環境」というワードから得た着想という枠で語るには、ふさわしくないかもしれませんね。

        *       *       *

そろそろ、論を閉じることを考えないといけません。「生命環境」から連想された「いのち」を介して、ぼくが今まで考えてみた諸断片を列記してみました。それらが、ゆるくであっても連結しているように感じていただけたなら、この稿は「大」がつく成功です。

機会を改めて考え続ける、あるいは、考え直してみたいことは、

①生と死について、
②幸福と不幸ということについて、

です。それぞれを、いのちの「あらわれ」として考えてみようと思っています。その機会が、近く訪れることを自分に期待しながら、この稿を閉じることといたします。最後までお読みくださり、深謝いたします。ありがとうございました。

なお、この稿についてはカンパという形でのご支援を検討いただけるように設定をいたしました。ここまでで全文ですので、お気に召していただけたようでしたら、購入のお手続きをいただけますと、今後の励みとなります。何卒よろしくお願い申し上げます。それではまた!

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