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エッセイ『考える必要のない子供たち』

こんばんは、レイです

今日は、本を読んで~ではなく、思ったことを書き連ねてみようかなと。

最近のSNSなどを見ていると、本当に考えることが減ったなぁと思う。
数回、ではなく。毎日、割と頻繁に、その事実を感じている。
それはインターネットの普及とAIの活用で、更に明らかになってきた。

考えない子供が問題視されて、AIやネットは悪だと決めつける。
一方で、日本の教育を振り返ると、思考力はそこまで重視されてない。
記憶力のテストは行うが、思考力をテストする問題は、ごく少数しか存在しない。つまり、大人になる瞬間まで考える必要がない。
だって、8割取れれば大抵、どんな学校でも困らないから。

問題を解くというのは、最適解を早く導く導線を覚えるだけ。
数学だって論理的思考力が~と言われているが、関係ない。
それより「公式と解法」「公式が使える形にする」
という方法を覚えるだけ。必要なのは、その訓練だ。
別に特に考える必要はなかっただろう。

さて、こう考えてみると、だ。
別に思考力は必要がないということになる。
インターネットの使い方だけ、知っていれば何も困ることはない。

『考えなくても生きていける』世界というのは面白い。
「ネットに書いてあった」という一言に絶大な信頼感を置く。
少し考えればわかることでも、別の誰かの発言を信用する。大衆の意見を尊重するのでも、自分の意思を持って押すのでもない。『意志なき決定』が当たり前になっていく。

情報の取捨選択だって、かなりあいまいだ。

「情報の取捨選択が必要なのはわかっているし、実施している」
というのが、若者の感覚だ。これはある意味ではあっている。

ネット世界という強大なバンクから自分の欲しい情報を抜き取り、しっかりと獲得しているのだから。高齢者や非SNS世代は、それができない。

しかし若者は、「その情報は真か疑か」を考えることを、そこまで行わないのだ。重要視も、していないだろう。
多分大丈夫、ネットで言われているから大丈夫という認識。そのまま信じて実行する。それが自分の都合のいい内容だと、まさにそれだ。

そしてそれは、学校教育の場や恐らく会社で、ある程度は通用する手法だ。

だからこそ、『考える必要はなくなる』という世界になる。

この世界はある意味では完成された世界だ。
人間が一日に思考できる回数は決まっているし、時間もエネルギーのリソースも有限だ。であれば、調べれば何でもわかるのに、わざわざ考えるのはコスパが非常に悪いからだ。

ただ、コミュニケーションのレベルで『考える習慣がない』というのは非常にネックだ。何かあるたびに「ちょっと待ってくださいね」と言って、調べることはできないからだ。

よくいる頭のいい子は、多くの知識を持っている。
非常に記憶力がいい子供だなと思う。あくまで記憶力だ。

『何を聞いてもしっかりと返答があるが
自分の思考はその中にはない。あくまで、
ネット知識を頭の中に入れ込んでいるだけ』なんだ。

すごく面白くて、ネットという巨大な箱から、自分が使う知識を脳という収納箱に格納しているだけだ。ここに、思考力は必要ないのだ。

さて、ここまで考えたときに、『思考力の優れた子供』というのは、どの程度必要なのかが気になってくるものだ。というか、思考力って何ぞって感じだが。

知識と経験という情報が、簡単に手に入り、記憶力があればその知識経験を簡単に、まるで自分の物であるかのように語れる世界。

正解がソコにあるのだから、わざわざ考えても仕方ないこの時代。
本当に思考力を持った子供というのは、
どれくらい必要なのか。

AIを否定する人間には、ちょっと考えてほしいなと思った。
判断をする人間は、確かに必要だけど。でも、「AIは危険で危ない」と言っている。警鐘を鳴らしている人の根拠で、「本当に危ない」と思うことは、正直ないように思える。

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