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(2話)サイカさん

1話を未読の方は以下からどうぞ!

 僕は夕食後部屋にこもった。
 英語の課題が出ていたことを思い出して、ワークとノートを開いたが、一文たりとも読み進められなかった。頭の中に思考の石が詰まっていて、新しい言葉が入ってきて僕の意識が動かされるのを厭うように、重い思考の石はそれを跳ね返してしまうのだった。
 抽斗を開けて、サイカさんが仕事で行った京都土産の便箋を取り出すと、英語のワークの上に広げた。英字がうっすらと透けて見える。何が書かれているかかえって気になって顔を近づけると、ふわりとお香の匂いが鼻をくすぐった。
 ポストに行くのだから、手紙でも書いてやろうと考えた。
 父と母、それから妹の茜。
 手紙は郵便配達員に運ばれ、郵便局で仕分けされ、配達員の手でこの家に戻ってくるだろう。僕が宛先に書く住所にはもう家などない。更地になって、買い手が見つからずに雑草が逞しく茂っている。野良猫が時折遊びにくることもあるらしい。
 手紙が戻ってきたとき、手に取るのはサイカさんだ。そのとき、彼女はどんな顔をするだろうか。
 困った顔? それとも悲しそうな顔?
 そして他の大人たちと同じように、僕に言い聞かせるのだろうか。
 あなたの家族はもういないのよ、と。
 大人たちは、僕が現実を受け入れていないと思っている。家族の死を受容できず、家族が生きている幻想の世界の中にいると。親戚たちは僕を引き取ることを嫌がった癖に、病院には行かせたがった。家族団らんの中に突然現れた虫を父親が問答無用で叩き潰すように、僕のことを潰したがった。それには、僕が異常であるという大義名分がいる。きっと病院にでも押し込みたかったのだろう。
 でも、サイカさんは違った。僕と血縁関係なんかない、まったくの他人なのに、葬儀の席で僕を押し付け合う親族の前に現れて、「悪いけど、この子はわたしが育てるから」と宣言して颯爽とかっさらっていった、かっこいい人だ。
 サイカさんは僕のことなら何でもお見通し、という目をしている。でも、僕はサイカさんのことを何も知らない。一緒に生活して分かったのは、どうやら二十代後半らしいということ。独身であること。それから、サイカさんには他の人にはない、不思議な何かがある、ということ。
 訊いてみればいいのかもしれない。でも、怖かった。相手の内側に踏み込む一歩が、目の前に千尋の谷があるかのように僕には困難なのだ。それは家族を失ったからではなかった。元々僕がもっている性格のせいだった。
 人の感情に過敏に反応してしまう。それが僕の難点だった。どれほど些細な感情の変化でも見落とさず、周囲の、自分に向けられたわけではない負の感情にも反応してストレスを蓄積する。それが自分に向けられたものだったなら、大きなショックを受けて、心拍数が上がり、呼吸が苦しくなり、眩暈がして立っているのも困難になる。
 そんな人間が集団生活をおくるには、大きなストレスとリスクを覚悟しなければならない。たとえ血の繋がった家族であっても、彼らは僕のリスクファクターでありえた。母の苛立ち、父の怒鳴り声、茜の泣き声。どれも僕には鼓膜を針でつつくような嫌なものだ。
 サイカさんとの生活は心地よかった。凪いだ湖の上を、ゆったりとボートで漂っているような、時間と空間の緩やかさがあった。彼女はけっして僕を否定しなかった。あるがままに受け入れ、それでいて、どこかへ導こうとしている、とも感じていた。
 僕はペン先を便箋に下ろしたものの、どう書き出していいか思いあぐねていた。なにせ、死者に手紙を出すなんてことは初めてだ。届かないと分かっている手紙なのだから、適当でいい、とも思うけれど、サイカさんが読むことになると思うと、じゃあそれを前提にした手紙がいいかと考えて、いやいや、それじゃサイカさん宛の手紙だ、と僕は頭を掻きむしって机に突っ伏した。
「物語は虚構。嘘偽りの塊。だからこそ、柔軟に姿を変え、人を癒すことができるの」
 サイカさんは初日の夜、一人で眠れるから大丈夫、と恥ずかしさと子ども扱いされた腹立たしさに困惑した僕を無理矢理布団に入れ、添い寝して物語を読んでくれた。どんな話か細かくは覚えていないが、ロアルド・ダールという人の子供向けの短い話だった。そしてそれを読み終えた後で、サイカさんはそう言った。
 なら、僕も物語ろうと思った。読むのが死者でも生者でもいい。僕をこの薄い便箋の上に、インクの波の上に乗せて駆け巡り、一編の物語を綴ってやろうと思った。
 僕は書き始める。誰にでもない、僕のための物語を。



『ある旅行者の備忘録』
 二〇二六年二月十一日 快晴?
 この部屋には何もない。あるのはペンとこのノート、それから机と椅子。窓は西向きと南向きに一つずつ。北側には鉄製の扉があるが、施錠されている上、こちらからは鍵穴が見当たらない。窓は外界の風景を鮮明なホログラフィーで映し出しているだけで、窓枠の向こうは壁だ。つまり、この部屋は脱出不可能な密室というわけだ。
 そもそも、外の風景に湖やその畔に建ち並ぶ瀟洒な住宅などが映されているが、そんな光景などもう存在しないことを私は知っている。
 私は天からの光によって焼き払われた世界を旅してきたのだ。その日は突然来た。私は無神論者だが、あの光は神の裁き以外のなにものでもないと思った。当初政府はロシアの新兵器だと報じていたが、そのロシアや中国、アメリカなど、世界各国に光の柱は降った。降って世界を焼け野原に変えていき、それは今もまだ続いているはずだ。私はこんなところに監禁されている場合ではないのだ。いつここに光が降り注ぐかも分からない。早く逃げなければ。
 ああ、名前を記しておくのを忘れた。誰かがこれを読んだとき、書き手が誰なのか分からないのでは、資料の信憑性に疑問をもたれるだろう。
 私はケント・ヤマギシ。仕事は……特にしていなかったと思う。すまない。昔のことや自分のことを思い出そうとすると、頭がぼんやりするのだ。きっと奴ら、「管理人」が定期的に私に投与していく薬剤のせいだと思う。最初の頃は抵抗したが、奴らは手強く、数が多い。無駄だと諦め、奴らの好きにさせている。その代わり、こうして記録をとっておこうと考えたのだ。
 この記録も奴らに見つかる、そう思ったかもしれない。だが、私はいい隠し場所を見つけた。北の角から東に五歩、南に八歩進んだところの床材が痛んでいて、剥がれるようになっているのだ。ノート一冊くらいなら隠しておくのに十分なほど。
 そろそろ奴らが来る。そんな気がする。奴らの足音は甲高い。なにせ上等な革靴を履いているのだからな。それに引き換え私は履き古してぼろぼろになったスニーカーだ。足音だ。急いでノートを隠さなければ……。

『ある精神科医の覚え書き』
 患者は大分沈静化してきたようだ。大人しく投薬を受けている。だが、妄想の世界から脱することはできないらしい。診療中の九割は妄想の世界におり、自分はケント・ヤマギシという日本人男性であり、世界は滅んでいて、ここも危ないと訴える。そして私たちを「管理人」と呼び、自分を迫害する存在だと憎しみの目を向ける。
 一割正気な間は、抑うつ傾向が強く、言葉数は少なく、項垂れて私と目が合うことはない。ただ一言、「ケント・ヤマギシを殺して」とだけ言った。自分の人格が分裂していることは理解しているようだ。そしてケントが本人格に悪影響を与えているのは間違いない。ケントの人格の対処を優先すべきか。
 ケントは与えられたノートに何かを書き始めたようだ。中身を見てみたいところではあるが、まずはケントとのラポールを形成しなければならない。彼を否定せず、言葉を吐き出させることで、突破口を手探りするしかないだろう。
 だが、彼らの依頼とは言え、なんで私がこんなことを……。

『管理人のメモ』
・ケント・ヤマギシ(以下被験者四号と記す)の投薬時間の変更。午後九時。
・被験者四号に睡眠薬を投与する。
・精神科医は疑問を抱いてきている。
・被験者四号に本を与えるか……、多数決により否決。
・被験者四号の別人格を強化するよう、医師に指示。回復が見られたらカウンセラーを投入する。
・被験者四号は靴を気にしているようだ。新しい靴を支給する。……四号の人格を強化する恐れがある。否決。
・被験者四号の個人情報の入手は成功した。
・精神科医への投薬開始。」

〈続く〉

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