見出し画像

世界に骨が降るなら


■まえがき

今回の小説は、X(旧Twitter)で140字小説としてアップしていたものを、追記修正してまとめたものになります。なので、場面描写が詳細になっていたり、原テキストではなかった心理描写があったりします。
約2000字分くらい(改稿して)溜まったら定期的にアップしていこうかなと思っております。

Xから流れてこられた方も、noteで初めて読むよという方も楽しめるように書いていきたいと思いますので、ご興味がありましたらお付き合いください。

コメントや感想などいただけますと、書く原動力となりますので、noteでもXでもいいので、お待ちしております。

それでは、物語の幕を上げることといたします。お楽しみくださいませ。

■世界に骨が降るなら(1)


 夕暮れの光が淡く差していて。観葉植物が疲れたように頭を垂らしていた。
 僕はダイニングテーブルで宿題をやっていたけれど、数学の問題で躓いて、途中まではその問題の数式を頭の中で組み立てていたが、気づけばさっき読んだ漫画の一コマが訴えかけるように頭に浮かんでいた。
 サイカさんはスープをかき混ぜていた。弱火で、鍋全体が緩やかな熱伝導で震えていた。スープの表面は時折弾け、泡が散った。トマトのいい匂いが僕の鼻をついた。
 僕はサイカさんの華奢な背中に向かって問いかけた。
「『奥の雪原』って、どうして入っちゃいけないの」
 この街にはそう呼ばれる、真っ白な野原が広がる土地がある。サイカさん曰く、死んだ生き物の骨の欠片がそこに降り積もるから、その野原はいつでも白いのだとか。
 サイカさんはコンロを捻って火を止め、振り返って腰に手を当てる。明るいブラウンの髪の毛が肩口でわずかに揺れる。ネイビーブルーのデニム生地のエプロンには、大きなスマイルマークが描かれていた。
「彼らの土地だから」
 彼ら、と僕はオウム返しに問い返す。
「そう。辿りつく場所を見失い、やってきた彼らの果てがあそこだから」
 よく分からないよ、と僕はシャーペンをくわえ、頭の後ろで両手を組んだ。
「彼らはね、元に戻りたがっている。だから生者は足を踏み入れてはいけない」
 そう言って、サイカさんは鳶色の瞳でじいっと僕を見つめた。
「それに、あなた知らないでしょう。『奥の雪原』がどこにあるか。あなただけじゃない。誰も知らないのよ」
 ふうん、と生返事をすると、サイカさんは僕の向かい側に座って繕い物を始めた。膝の破れた、僕のジャージだ。サッカーの時間にタックルを受けて、激しく転んだときに破れた。あそこでシュートを打てていれば、決まったはずなのに。でも、そんなこと誰も望まなかっただろう。
 僕は解けない問題を諦めて、次のページを開いた。
「人殺しは遺伝する。なぜなら、遺伝子の中には人を殺せと命じる遺伝子があって、それは何よりも優性する遺伝子だからだ」
 丁寧な、几帳面な文字で、問題集に元々書かれていた文字など存在しないかのように傲岸不遜に無視して、そのメッセージは書かれていた。
 僕は問題集をゆっくりと閉じ、心を落ち着けるため深呼吸をする。握ったシャーペンをへし折ってしまいそうなほど、手に力が入る。
(大丈夫。大丈夫だ。落ち着こう。こんなのただの文字だ。意味のない文字の羅列だ)
 誰が書いたかは分かっていた。文字の癖。柔軟さと硬質さが同居した、開く前の花の蕾のような青臭さを感じさせる文字。
 顔を上げて、僕はサイカさんに訴えた。
「学校、行きたくない」
 それだけ口にするのが精いっぱいだった。本当なら、こんなことをサイカさんに言うこと自体憚られるのだ。ただでさえ引き取ってもらった恩義があるのに、その上厄介ごとを持ち込もうとしている。サイカさんは「想定済み」と微笑んで答えるかもしれないが、僕の心が引け目に感じないわけにいかなかった。
 でも、もう学校には行きたくない。彼女と顔を合わせることは、心に鞭打たれるような拷問でしかない。彼女は、もっとも信頼していた友人だったから。
 サイカさんはそう、と僕の目を穏やかな眼差しで見つめ、立ち上がると壁際の木製のチェストの中から、掌大の箱を取り出してテーブルの上に置く。
 箱は桐の箱で、紫の紐で封をされている以外は、何も書かれていなかった。開けると、恐らくは手製なのだろう、カードの束が現れる。カードはトランプほどの枚数がありそうだったけれど、サイカさんはそこから五枚だけ抜き取ると、テーブルの上に並べた。
 カードの裏面は鮮やかなブルーに染められていて、その中を亀裂が走るように複雑な幾何学模様が描かれていた。
「その中から一枚選びなさい。明日はそこに書いてある場所に行けばいいわ。学校にはわたしから連絡しておくから」
 どうすべきか逡巡したけれども、引くしかない。引くか、学校に行くか。なら、引くだけだ。でも、もしもそこに学校と書かれていたら。そのとき、僕はどうしたらいいのだろう。
 かすかに手を震わせながら、向かって右から二番目のカードに手を伸ばした。
 サイカさんはほんのわずか口角を上げて笑み、他のカードをその白くたおやかな手で波が砂をさらうようにかき集めて箱にしまう。
「大事なのは自分で選ぶこと。学校だってそう。それはあなたが選んだ運命。なら、その声に従いなさい」
 カードを引き寄せ表にしてみると、そこには「郵便ポスト」と書かれていた。
 郵便ポスト?
 僕は西の街外れにある錆びついた、古びた郵便ポストを思い浮かべた。そこが印象的だったし、何より学校から最も遠い。
「明日の朝はいつもの時間に起きて、いつも通り家を出なさい。規則正しい生活は大事よ」
 サイカさんは繕い物に戻った。紺色のジャージに、それより薄い青色の布が当てられる。傷は埋まったように見えても埋まらない。異質なものとして目立つのだ。
「なぜ同じ色の生地を使わないかって、不思議?」
 横目で一瞥し、針と糸を動かして布地にくぐらせていく。リップクリームを塗った唇はエナメル靴のように光沢があって、ほんの少し上がった口の端まで瑞々しくて綺麗だった。
「傷はね、見えないように塞いでしまうことが一番ダメ。塞いでも、傷はそこにあるのだもの。それなら、目印をつけてそこに傷があるってあなたが分かれば、同じところを傷つけないように気をつけるでしょう」
 僕は俯いて項垂れた。サイカさんはすべてを知っている気がした。僕のことも、彼女のことも、そして僕らを取り囲むみんなのことも。
 こうしている間にも、「奥の雪原」には骨が降るのだろうか。しんしんと、ただひたすらに、古い骨を埋め、新しい骨が陽の光を浴びるために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?