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発券係

 鈴木はⅩ市に引っ越した。
 アパートの大家に引っ越しの挨拶で菓子折りを持っていくと、最初こそ好意的に応対されたものの、鈴木がまだ転入の手続きを役所で済ませていないと知ると、途端に冷淡になった。
 鈴木は鼻先で叩きつけられるように閉じられた扉を、頭を下げかけた中途半端な姿勢で呆然と眺め、すぐに手続きに行こうと部屋に戻って印鑑などを引っ越しの荷物の中から引っ張り出し、バスに乗って役所へ向かった。
「おれ、昨日引っ越してきたんですよ。この街、いい街ですよね。旅行で来てすっかり気に入っちゃって」
 鈴木はバスを降りるとき、運転手に言った。運転手は初老の男だったが、愛猫を愛でるように相好を崩し、「おう、嬉しいこと言ってくれるねえ」と鈴木が運賃を入れる手元を一瞥しながら言った。
 お、いい感じだな、と鈴木は手ごたえを感じ、「これから役所に手続きに行くんですよ」と冗談でも飛ばすように言う。するとそれまでにこにこしていた運転手の顔からごっそり感情が抜け落ちたように無表情になり、「早く降りてくれ」と運転手は抑揚のない冷たい声で言い放った。
 え、と鈴木が戸惑って訊き返すと、運転手は顔をみるみる朱に染めて、「早く降りろっつってんだよ!」と叫ぶ。狼狽しながら振り返ると、乗客がみな鈴木を見つめていて、それがみな一様に能面のようなぞっとする無感情な目だった。
 逃げるようにバスを降りると、「なんだ、この街」とバスに向かって悪態を吐いた。バスはその鈴木に屁でもひっかけるように排気ガスを吹き付けて、不機嫌そうな駆動音を鳴らして走り去って行く。
 役所はバス停から五分ほど東に歩いた街外れにあった。
 古いコンクリの建物で、増築したのか、小さな正方形の箱のような部屋が幾つもついているせいで、とにかく角の鋭さが目立ち、柔らかな印象のない、とげとげしい造形は、他者を拒むような雰囲気があった。窓も小さな窓が申し訳程度についているだけなのも、まるで前時代的な刑務所のような、息苦しい閉塞感をも感じさせた。なんだか虫の卵か巣みたいだな、と鈴木は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
 入り口も今時自動ドアではなく、押して開閉するタイプのガラス戸で、ガラスには傷や曇りがあり、清潔には見えない。昔近所にあった潰れかけた喫茶店のドアがこんな感じだったな、と鈴木は思い出す。
 重いドアを押し開け入り口をくぐると、正面に「市民課」の吊り看板が見える。窓口のカウンターには誰もいない。空いていてラッキー、と鈴木は思ったが、鈴木はさらに奥に視線を巡らせて訝しく思った。奥の職員用のデスクは、広いフロアに何十も並んでいるのに、職員の姿がない。と思うと、一人だけいた。フロアの真ん中に置かれたストーブに両手をかざして暖をとっている中年の女性職員がいる。
 なんだよ、ちゃんと仕事しろよ、と反感を覚えながらも、とりあえずいる人間に声をかけるしかないと鈴木はカウンターに近寄って行って、女性職員に声をかける。
 紺のカーディガンを着た女性職員は怪訝そうに歩み寄ってくると、「何か?」と鈴木が声をかけたことを咎めるような声音でつっけんどんに返した。
「あ、いや、転入の手続きをお願いしたいんですけど」
 女性職員は鈴木の頭の先からつま先まで嘗め回すように眺めて、「ご予約は?」と鼻にかかった声で訊ねた。
「予約が必要なんですか」
「当り前じゃないですか。ここは市役所ですよ」
 馬鹿にするような女性職員の冷たい笑みに、鈴木もむっときて「転出の時には必要なかったですけどね」と突っかかるように返した。
「ここはあなたがいた自治体とは違うんですよ」
 まるで自分たちが上位の存在かのように、他を見下すその物言いに、さすがに鈴木も唖然とした。だが、転入しないことには始まらない。市民となるためには避けて通れない。もう前の市の市民でもない鈴木はどこの誰でもない。
「じゃあ予約します。手続してください」
 女性職員は眼鏡を押し上げる。眼鏡は動いたのに、眼鏡の奥の小さな目は動かない。それが当たり前なのに、どういうわけかひどく不気味なことに思えた。随分度のきつい眼鏡をかけているな、鈴木は自分もその眼鏡をかけられた気がして目をしぱしぱとさせた。蛍光灯の光が目に染みる。
「予約は予約担当の窓口がありますから、そちらで」
 女性職員は鈴木の左斜め後方、駐車場側の階段を手で指し示し、それで説明すべきことは終わったというように踵を返して、再びストーブで暖をとり始めた。
 反論しても仕方がないし、反論する相手をそもそも失ってしまったので、鈴木は渋々女性に示された方に向かう。すると、「発券係」の立て看板があり、一人の男がその看板の横にある、長方形の、不格好な発券機の傍に立っていた。
「あの、転入の予約ってここでいいんですか」
 警戒しながら恐る恐る訊ねると、立っていた男は機敏な動作で顔を向けると、無表情のまま「こちらで発券しますので、どうぞ」と発券機を手で示す。その仕草といい声といい、昔映画の「ターミネーター」で見た俳優とその日本語吹き替えを彷彿とさせるのだが、姿形はまるで違っていて、長身なのは同じだが、ひょろりとして色白でもやしのようで、手足が常人よりも長いように見えた。髪に白髪が混じっていて、こけた頬に、隈が目立つ疲れた目つきをしていて、目じりには深いしわがある。三十代後半から四十代といったところだろうか。
 鈴木は係の男、名札を見ると、Tという名だった。T氏に向かって「どこを押せばいいですか」と三つのボタンを前に戸惑って訊ねると、T氏は左端のボタンを指さし、「こちらが発券ボタンです」という言葉の通り、確かにボタンの上には擦れた文字で発券と書かれていて、鈴木は少し恥ずかしくなった。
 発券ボタンを押すと、白い長方形の感熱紙の券が発行されて、そこには紫のインクで十三番と書かれていた。だが、フロアの中には十二人も待っている様子はない。それとも、今日もう十二人対応し終えているということだろうか、と思い視線を下に移すと券の下部に日付と時間が書いてあった。だが、それは一週間も後の日付だった。
「あの、これどういう意味なんですかね。番号と日付が書かれてるんですが……」
 T氏はやはり「ターミネーター」に似た声で、「その日付の時間にお越しくださいということです」と答えると、発券機の三つ並んだボタンの、真ん中のボタンを押した。ボタンの上には何か字が書かれているが、塗装がほとんどはがれていて、判読できない。だが、機械は何か動作を起こす気配なく、しんとしている。
「転入の手続きまで一週間もかかるんですか!」と思わず鈴木も叫んだ。鈴木の声が虚しくフロアに響き渡る。
 馬鹿馬鹿しいと思った。これまで各地を転々としてきたが、そんな自治体一か所もなかった。ただでさえ、先ほどの女性やT氏の無機質な、いわばお役所仕事ぶりに頭にきていた鈴木は、「すぐに手続きしてください。これは行政の怠慢だ」と食って掛かった。
「私には出来かねます。私は券を発券するのが仕事なのです。予約のご相談なら、一週間後に転入担当係にお申し出ください」
 話にならない、と半ば悲鳴のように鈴木は声を上げ、そこでふと自分が平静でないこと、感情的になっていることに気づいて我に返り、落ち着けようと二度深呼吸した。
「普通市民が頼んだら、担当者に繋いだりするでしょう。それはあなたの仕事ではないのですか」
 落ち着け、落ち着けと言い聞かせながらゆっくりと訊ねる。
「あなたはまだ当市の市民ではありません。そしてお訊ねのことが私の仕事かと言われれば、答えはノーです。私の仕事は券の発券です」
 また激昂したい衝動が沸き起こって来るのを鈴木は何とか押し留め、「あなたは券を発券する以外のことはしない」とそんな馬鹿なことがあってたまるかと失笑しながら訊くと、T氏は「その通りでございます」と答えてぺこりと頭を下げた。
「ぎょ、行政の効率化とか人件費の削減とか叫ばれて久しいのに、あなたはこんな誰でも、言い方は悪いが小学生だってできることだけを仕事にして、高い給料をもらっているっていうのか」
 T氏は冷めた目で鈴木を見やりながら、「給料は高いわけではありませんが」と前置きした上で、「それが私の仕事ですので」と突き放した。
「券なんか押せば発券されるんだから、あんたが転入の手続きをしてくれればいいだろう」と鈴木は平常心を失いだす。
「それは私の仕事ではありません」と言いながら、T氏は再び真ん中のボタンを押す。しかし何も起こらない。
「いいや、市の職員ならしなきゃならない。手続をする義務がある」
「ありません」とT氏はにべもなく答える。
「それなら、ないって根拠を見せてみろ」
 鈴木があるわけがないとせせら笑って自信満々に言ってのけると、T氏は発券機のデスクの引き出しを開けてリングファイルを取り出すと、ぱらぱらとめくって、鈴木の方に開いて差し出した。
「『X市発券条例』……? 『第十七条第二項 何人も発券された券の日時及び番号が到来するまで、手続きの実施を請求することはできない。』、ふざけるな。なんだこれは」
 T氏はファイルをぱたんと閉じて発券機の上に置くと、「市政は条例に則って実行される必要がございますので」と恭しく頭を下げた。
 鈴木はくらくらとして、目の前が揺れる心持ちだった。
「そんな条例無効だ。ち、地方自治法がそんな条例許すはずが」
「条例の撤廃をお望みなら」とT氏はデスクからフロアマップを取り出すと、三階の角にある小部屋を指し、「条例管理係までお申し出ください」と無感情に言った。
「ただ、記録によれば最後にこの条例の撤廃が申し出られたのが十二年前ですが、五年後に否決されております」
 鈴木はたかが条例の改廃に五年もかかったことにも愕然としたが、否決されたということを聞いて自分の耳を疑った。だが、むべなるかな、条例が今もなお健在であることを考えれば当然と言える。
「なら、裁判所に訴えれば……」
「その翌年に裁判にかけられておりますが、原告の訴えは棄却。上告されるも棄却です」
 鈴木には信じられなかった。この国に良心というものが残っていればこんな条例、議会の承認を得て存在しているはずがないし、司法が存在を支持するわけがない。いや、良心などという曖昧であやふやな概念に頼らずとも、言葉に支配された法がその効果を十全に発揮しているのなら、こんな馬鹿げた条例を許しておくはずがない。間違いなく、そこには誰かの思惟があるはずだと鈴木は固く拳を握りしめた。
「市長に会わせろ。直接苦情を言う」
 T氏は眉をぴくりと震わせたが、頑なな巌のように表情を崩さず、「それは私の……」と言葉を紡いだところで鈴木がぴしゃりと「仕事じゃないってんだろ」と吐き捨てるように言う。
 大体偉い奴は高いところという相場がある。最上階には議会を戴く以上、議場を置いている自治体が多い。となると、市長はその下のフロアだ。おあつらえ向きに鈴木が今いる発券係の隣には上階への階段がある。
「やめた方がよろしいかと」
「お前の仕事ぶりも市長に文句言ってやるよ。そうすれば首になるだろ。こんな怠慢な職員、首にした方が市のためだ。市長は市のために働くものだろ。市の幸福の追求のために仕事をすべきだよな? だとしたらその執行機関であるお前らも、そのために働けよ。なんだよ、発券係って。転入まで一週間もかかる自治体? 市民を馬鹿にするんじゃねえよ」
 鈴木は沸々と沸いてくる怒りとともに言葉が溢れ出るのを止められなかった。だがその鈴木の怒りに煮えた言葉を浴びても、T氏は人形のように同じ表情だった。
「再三申し上げますように、あなたはまだ当市の市民ではありません。それから、ここでこうして問答していること自体、私の仕事ではないのです。いわゆる私の無償のサービスです。そしてこれはあなたへの善意で申し上げるのですが」
 T氏は鈴木を怖いほどじっと見つめて電子音声のように一本調子で言った。
「市長への直訴は得策ではありません。券の指示に従ってください」
「はは、お前、自分の仕事ぶりが市長に知られると困るんだな」
 鈴木は整理券をぐしゃぐしゃに丸めると、床に叩きつけ、「こんなものがなんだ、くだらない!」と叫んで階段を駆け上がった。
 だが、踊り場で反転し、更に階段を上がったところで、重厚な灰色の防火扉が降ろされており、先に進むことができなくなった。通常防火扉には人が通れる小さな扉がついているものだが、目の前の扉は女性職員やT氏の顔のようにのっぺりと特徴がなく、ただ壁としてそびえたっていた。
 鈴木が引き返してT氏に扉を解除させようと考えて反転したところで、T氏が発券機の右端の赤いボタンを押した。すると鈴木の目の前に、行く手を遮るように同じ防火扉が降ってきて、轟音をたてた。
 驚いた鈴木は腰を抜かして階段で尻もちをついていた。埃が舞って視界を白く染め、両手で埃を払うが気管の中に入って咳き込む。
「なんなんだよ、これは」
 鈴木は立ち上がって、目の前の防火扉を繰り返し拳で叩いた。「出せ、なんのつもりだよ!」と叫んでみたが、扉は鈴木の想像以上に分厚いのか、音を吸収して、反対側に抜けているようには思えなかった。
 階段の途中であるために窓もない。狼狽えていると、蛍光灯もぱちんと消えた。周囲を完全に壁に囲まれた空間は真っ暗になった。その闇が粘りつくように濃厚で、質量さえもっているように鈴木には感じられた。恐怖の叫び声をあげること自体が、闇の中で眠る何かを呼び覚ましてしまいそうで恐ろしく、憚られるのだった。
 T氏は発券機の前に立つと、真ん中のボタンを押した。機械はじーっと蝉が鳴くような音をたてると、一枚の紙片を吐き出した。
 その紙片には「五十五」という数字が赤いインクで印字されており、他には何も書かれていなかった。T氏はそれをデスクの中から取り出したファイルのポケットに差し込むと、また机の中に戻した。
 市民課のフロアの方で怒鳴り声がして、廊下をのっしのっしと憤りが人の形をして歩いているような音がする。
 仕事だ、とT氏は背広を正し、発券機の横にしゃんと立つ。

〈了〉

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