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朱毬

 僕が燃える。
 僕は黒いスーツの大人の群れにまじって、大理石の壁に囲まれた炉を眺めていた。大人たちはみな鬱々とした表情で、すすり泣いている人もいた。従姉の瞳ねえさんは兎のように目を真っ赤に腫らして、唇を噛み締めていた。僕が声をかけても、固く炉を凝視したままで、振り返ってはくれなかった。
 やがて大人たちは控室に戻り、食事が振舞われると、何人かの男たちが煙草を吸うために外へと出た。僕もそれについていき、自動ドアから外に出る。
 黒い漆塗りのようにつやつやとした外壁に差し込まれた透明な自動ドアは、陽光を受けて色づき、それがどこか甲虫の薄羽を思わせて、僕は見入った。
 火葬場は大きな円柱にいくつもの正方形が組み合わせられた、やはりずんぐりとした虫のようなどこか間抜けな形をしていた。中心を担う円柱の塔の上にはさらに細長い円柱の煙突が伸びていて、その先から黒い煙がたなびくように昇っていた。
 僕はあの黒い煙の中にいるのだろうか。骨になるのではなく、煙となって空へと昇り、やがて雨となって大地に降り注ぎ土に還り、何かの植物になって芽を出す。そんな循環の中に溶け込む方がいいと思った。
 僕の足元にてん、てんと赤い毬が転がってきた。それを拾い上げ、振り返った。自動ドアの向こうに少女が立っていた。艶やかな着物の少女だ。
彼女の紅い唇が、蛭のように蠢いた。
 さ、おいで。遊ぼ。

 毬がぽん、ぽんと砂利道を転がって、少女の足元で止まった。
 この辺では見ない子だった。十歳くらいだろうか。妹の花緒と同じくらいの背丈だった。鮮やかな朱の牡丹を散らした華やかな着物に、大人びた紫紺の帯を締めていた。
 和服など日常的に着るのは、丘の上の柊様の一族くらいのものだ。だが、今の柊家の当主、定俊様には息子が一人いるだけのはずだった。その息子も十八になり、村を出て東京の大学に通っている。
 つまり、目の前の少女は柊家の一員でもないのに、目を引くような見事な着物を身に纏っていることになる。同級生の女の子でも、年上の姉さん方でも、精々夏祭りに浴衣を着る程度だ。本格的に着物を着るのは成人式までないといっていい。
 誰だ、と孝は警戒心に満ちた、細めた目で少女を睨むように見た。夕暮れの逆光が少女の顔を暗くしていた。
 そもそも、あの毬はどこから来たんだ、と考えると孝には思い当たらない。突然虚空から現れて地面に落ち、転がって少女の足元まで辿り着いたようにしか思えない。
 そう思うと、孝は目の前の少女が昼と夜のあわいに現れる化生の者にしか見えなくなっていた。
 少女はついっと前に一歩進み出る。纏った影の衣を脱ぎ捨てるように、彼女の顔が現れる。
 細い眉と眦は吊り上がり、切れ長の目は猛禽のような残酷さと怜悧さを感じさせた。小ぶりな唇には薄く紅さして、頬は桃色に染まって瑞々しいほどの肌だ。着物でありながらおろし髪なのが不自然だったが、彼女の絹糸のように細く煌めいて美しい黒髪は結うべきではないと孝は思った。
「毬を」
 少女の声は天上から響く鈴の音にも聞こえれば、地獄の底から響く亡者の蠢きのようにも聞こえた。
「毬をお取り」
 いつしか毬は孝の足元に転がっていた。紅い布を縫い合わせた単純な意匠の毬だった。
 少女はうっすらと笑みを浮かべて、毬を手で差していて、身じろぎしない。孝が取るまで動かないだろう。だが、その毬は取りたくなかった。理由があったわけではない。根源的な恐怖が腹の底でぐつぐつと煮えていた。こんなことは、父と山の中でツキノワグマに遭遇したとき以来だった。
 だが、あのときはクマとは相当の距離があったし、父がいた。でも今は違う。クマで言うなら、喉元に手をかけられ、頭の上にその顎があるような状態なのだ。毬を取ろうが取るまいが、自分の運命の帰着点はろくなものじゃないだろうと孝はごくりと息を飲んだ。
 妹の花緒が鼻風邪をこじらせてよくない咳をしているからと、薬局まで使いに出されたのが運の尽きだった。そうでなければ、今頃自分は昨日誕生日だからと買ってもらったガンダムのプラモデルを作っていただろうに。
 逃げるか。でもどこに。家に向かう方向は少女が塞いでいる。一度町に戻るか。ほとぼりが冷めれば、少女も姿を消すかもしれない。期待は薄いが。他に手はない。
 孝は踵を返して一歩を踏み出した。
 毬がてん、てん、と孝の足元で跳ねた。
 ぎょっとして視界を落として毬を見、恐る恐る顔を上げると、少女が変わらぬ表情と姿勢で立っていた。
「さ、毬をお取り。遠慮はいらないよ」
 逃げることすら叶わない。選択肢など最初からなかったのだ。あったのは毬を取るというたった一つの選択。
 孝は屈んで毬に手をゆっくりと伸ばしながら、ぎょっとして慌てて手を引っ込めた。毬だと思ったそれは人の後頭部だった。妖しい黒い靄がかかったようになっていて、その頭が男なのか女なのかも分からない。でも、それが人のものだということは孝には確信をもって分かった。
「おや、坊。どうしたのだね。それを取らないのかえ」
 少女の口調は大人びている上に、事態を愉しむ、からかうような稚気を含んだ矛盾したものだった。そして、彼女は毬を毬と言わなかった。「それ」と口にした。
「坊の躊躇いは正しいよ。それは坊が最も好きな人間か、最も嫌いな人間のどちらかの頭だ」
「なんで、そんな」
 孝が口を挟もうとすると、少女の人形のような美しい顔が歪んで、顔に刻まれたしわの一本一本が憤怒を表していた。
「坊に言葉を発する権利はないよ。坊にあるのはそれを取らなければならないという義務だけさ」
 少女がおもむろに足を上げると、真っ白なふくらはぎが裾から覗いた。孝がそれに見とれていると、足は断頭台のように振り下ろされ、下駄の底がかあん、という甲高い音をたてて、我に返った孝は身震いした。
「もしそれが坊の好きな人間の頭だったなら、その人間は惨たらしい死を迎えなければならない。もしそれが坊の嫌いな人間の頭だったら、その人間は坊から大事なものを奪うだろう」
 どちらに転んでも孝に利のある結果にはならない。幼い孝にもそれが理解できただけに、そのあまりの理不尽さに涙が込み上げてくるのを禁じえなかった。涙で視界が滲み、景色がぐにゃぐにゃと歪みながらぼやけていくのに、その中で少女の姿だけが浮かび上がったようにはっきりと映っていた。
「さ。選びや。奪うも奪われるも、長い人生のたった一部。さしたることでもあるまい? 坊さえ生きておれば、人生は続く。夜の森を走る列車のようにな」
 一番好きなものは、正直分からなかった。脳裏にはクラスメイトの早織ちゃんの顔が浮かんだけれど、同時に母の笑顔も浮かんだ。どちらにしても、失われていいはずのものなんかじゃない。孝は「それ」が二人でないことを願った。
 じゃあ嫌いな人はと言えば、迷わず口にできた。カッちゃんだ。クラスのガキ大将で、孝を執拗に苛める意地の悪い同級生。でも、孝は小柄だったし、カッちゃんはクラス一の巨漢な上に、家が大工の棟梁で、喧嘩っ早いことから、子どものカッちゃんも滅法喧嘩に強い。孝には到底勝ち目のある相手ではなかった。もう十分平穏な学校生活や、金も奪われていた。これ以上何かを奪われるなんて我慢ならなかった。
 でも、好きな人を失うよりはいいのかもしれない。
 孝が子どもであるように、カッちゃんも子どもだ。奪えるものなどたかが知れているだろう。だったら。
 孝はそう考えて、意を決して黒い靄の中に両手を差し込み、中のボウリングのボールくらいの大きさ、重さの物体を掴んで持ち上げる。
 少女はいつの間にか右手で紅の毬をついていた。真っ赤な唇を吊り上げて、にっこりと笑う。その笑みは妖しく美しくも凄惨だった。
「坊、ぬしの選択はそれでよいのだな」
 毬がてん、てんと跳ねる。孝の手の中のそれがぐるりと回って目が合うと、幻影のように溶けて消えた。孝が顔を上げると少女の姿も毬もなかったが、毬の跳ねる音だけが、残響のように孝の耳に残り続けた。
 なんで、と孝は消え入るような声で呟いた。顔面は蒼白だった。孝には今見たものが何を意味するのか、その幼い頭では理解できなかった。
 好きなものか、嫌いなものか。答えは、その二択しかない。だが、そこから先を考えることを、本能が拒絶していた。
 孝は突然吹いた風の中に、少女の声を聞いた。
 さ、おいで。遊ぼ。

〈了〉

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