見出し画像

息の魚

 黒髪の女性から切符を受け取り、改札ばさみでぱちり、と切り込みを入れて返す。
 今日の乗客は彼女で最後だった。
 僕は改札ばさみを上着のポケットに押し込むと、白い息の塊を吐きだした。子どもの頃、空を見てあの雲は魚に似ているだとか、あれはキリンだ、と無邪気に指さしてはしゃいでいたが、大人になった僕はまだ、立ち昇る自分の白い呼気を眺めて、ああ、馬の形に似ているな、と思った。
 電車は車掌の出発の合図を待ちかねるかのように、うずうずと小刻みに震えていた。その中には山ほどの乗客を乗せて。彼らは各々自分の時間を過ごしている。本を読む者、イヤホンで音楽を聴く者。何事かを囁き合って、くすくすと顔を見合わせて笑い合う者。彼らそれぞれの時間を、この電車という巨大な生き物のような機械の腹の中に収め、もうじき出発する。
 今日は何本の電車を見送って来ただろう。
 何百、何千という切符を切った。そして彼らが新しい地へと旅立つのをその都度見送ってきた。彼らの顔には不安の色も、疑念も、何もない。ただ新しい地へと旅立つ興奮があるだけだ。
 袖をまくって腕時計を眺めた。出発までは時間がある。
 駅舎の外は、すっかり雪に包まれて、暗闇をざらざらと砂で撫でるような、雪の降る静寂以外は何も聞こえなかった。そう、駅舎の外には何もない。民家も商店も、不夜城のように煌々と明かりの照るオフィス街も、酔っぱらいたちが懐かしい、いつかの歌を合唱する繁華街も、蛍のような車たちが走り回る道路も、何もない。ただあるのは、一面の雪原だけだった。
 その雪原の中を、ただ一つ、存在を許されたレールが走り、どこまでも伸びていく。白い闇の中をただ只管に走るためのレール。そのレールがどこに行くのか、改札係の僕も知らなかった。ひょっとしたら車掌は知っているのかもしれない。でも、決してその秘密を明かしたりはしないだろう。その秘密を知っているから彼は車掌であり、知らず、改札ばさみを持っていたから、僕は改札係なのだ。
 僕も、最初から改札係だったわけではない。僕は、この駅舎の外のどこかでは、小説家だった。寓話じみた物語ばかり書く作家で、本は売れてはいなかった。ファンレターも一度もらったことがあるが、上から目線に僕の作品をこう変えた方がいいと助言のつもりで書いた分厚い手紙をもらったことがあるだけだ。
 細々と小説を書いて、少ないながらもそれで金を得て暮らしていた。彼女もいた。結婚を考えていた。いいアイデアが浮かんだから、それを形にして世に出したら、結婚しようと思っていた。けれど、彼女はある日出て行って、帰らなかった。彼女は僕が連れて行った作家同士の飲み会の席で知り合った新進気鋭の若手作家と親しくなり、僕を見限って彼の下に走ったのだ。僕のアイデアを手土産に。
 僕がそれを知ったのは、苦心して書き上げた僕の作品を出版社に送る前に小休止、と立ち寄った書店で見た、若手作家の作品を手に取ったときだった。作品の根底を成す考えから、結末まで、僕が考えたものそのものだった。
 僕はそれを読んだとき、筆を折ることに決めた。なぜなら、僕が苦心して書き上げたものよりも、盗人がさらりと書いた作品の方が、断然優れていたからだ。アイデアの用い方も、そのアイデアを生かす文章も、僕が書いたものとは雲泥の差、といっていいほどの隔絶があった。
 書店で声を上げて笑った。涙が浮かんできてしょうがなかったけれど、それ以上に笑えて仕方なかった。僕は僕でない何者かにならない限り、凡庸な小説家、という殻から出ることはできないのだと、それまでに積みあげてきた何万枚もの努力も、結局は砂糖菓子のように容易く嚙み砕かれてしまうのだと悟ったからだ。
 僕は僕の盗作を買って家に帰り、僕が自分で書き上げた原稿は破り捨て、データはパソコンごと破壊した。
 そして、部屋に火を点け、部屋を出て僕はただ歩いた。只管歩いた。真っ直ぐも、右にも、左にも曲がり、山を越えたし、川を渡りもした。
 気づいたとき、僕のポケットには改札ばさみがあるだけで、他に何も持っていなかった。そうして駅舎に辿り着いた僕は、誰に言われるでもなく、改札係として働くようになった。
 働いて二日目には、車掌がやってきて僕に制服をくれた。くたびれたコートを捨て、真新しい制服に身を包んだ僕は、生まれ変わったようだった。まるで、最初から改札係で、小説家であった僕は遠い幻影のように思えてくるのだった。
 それでも、僕は時折こうして小説家だったことを思い出す。この駅舎にやってきて、電車に乗って行く人間は、皆何かであったけれども、それを捨てて新しい地へと行くのだ。その先で、彼らが何になるのかは、僕も知らない。
 僕が思うに、才能の有る無しは文章がうまいとか、面白いストーリーが書けるとか、そういうことじゃないと思う。小説とは、強固な甲冑に身を包んだ貝のような生きものだと思う。文章力やストーリーテリングなんてものはその甲冑だ。その甲冑を舐めてみたところで、無機質な鉄さび臭い味がするだけだ。本当に小説を味わうのならば、その甲冑を剝ぎ取って、中から現れた中身に歯を立てなくてはならない。読者の方もそれだけの苦労をして、味わう覚悟を、本来ならしなければならないものなのだ。
 僕の小説には、その肝心の中身がなかった。見る目のある読者が甲冑を剥ぎ取っていって味わおうにも、中身が不在では、興ざめもいいところだ。だから僕の小説は売れなかったし、何ら賞にも引っかかることなく、世に出ては静かに消えていくだけだった。
 それを悟った今なら、書けるだろうか。いや、無理だろう。才能の差という断絶は、途方もなく広く、千尋のように深い。才能のないものは一生をかけても飛び越えることはできない。才能のある者はない者を振り返ったりしない。両者の間には、絶対的な溝がある。
 だから僕は生涯をかけて研鑽を積んだとて凡庸な書き手だし、何の苦も無く才能という溝を飛び越えていく若い芽は、次々と芽吹いてき、僕は取り残された老木となる。
 僕は帽子を目深に被り、ネックウォーマーを口元まで上げて、凍てついて微笑のまま固まった表情を隠す。ポケットの中に手を突っ込み、改札ばさみをかちかちと鳴らしながらホームを歩き、乗客たちを眺める。
 車掌は遥か彼方に見える一号車の先頭に、赤い旗を持って立っており、彼の姿は豆粒ほどにしか見えなかったが、僕には彼が僕を見ていることが分かった。
 僕が小説家になりたいと思ったのは、小学校の中学年くらいだった。その当時読んでいた本に感銘を受けて、作家になりたいと思ったのだったが、何という本を読んでいたのかは忘れてしまった。
 学校には他に小説を書いている生徒など皆無だった。だから僕は唯一無二の存在だった。僕はそのまま代替の利かない存在であり続け、やがて社会に小説家として出て行くのだと、信じて疑わなかったし、周りもそう思っていた。
 でも、僕が中学三年のとき、僕より三つだけ年上の人が、有名な出版社の新人賞をとって話題となり、僕も親にせがんでその作品を入手してもらったのだが、それを初めて読んだ時、僕のやっていたことがおままごとのような、幼稚なものに過ぎないと思い知らされたのだ。僕が初めて、才能の断崖を知ったのはその時だ。
 それから僕は友だちと遊ぶことも、親と旅行に行ったりすることもなく、ひたすらに本を読み漁り、いいと思った作家の文体を真似て練習してみたり、様々なジャンルの作品を書いて書いて書きまくった。部屋の中はプリントアウトした原稿で山積みになり、本棚に入りきらない本で溢れた部屋は、足の踏み場もなかった。
 僕は歩いていて、僕に背を向けて扉のところに立っている女性が気になって、立ち止まりじっと見つめた。彼女は視線に気づいたのか、振り返ってこちらを見た。
 彼女は白と茶色の格子縞のセーターに、濃紺のジーンズを履いていて、ベージュのコートを羽織っていた。首元には目も覚めるように鮮やかで滑らかな紫のマフラーが巻かれていた。
 ああ、と僕は眉間にしわを寄せ、涙が込み上げてくるのを堪えた。目頭を押さえ、堪えきれず涙が溢れて、眦を手で拭った。
 彼女はそんな僕の様子を見て、疲れたように微笑んでいた。
 彼女は僕に最初の絶望を与えた、新人賞をとった小説家だった。その彼女が電車に乗っている。彼女ほど才能に満ち溢れた者でさえ、さらに大きな海の中に潜っていけば、より大きな才能とぶつかり、己の無力さに打ちひしがれ、それまで築いたものを捨ててこの駅舎にやってきてしまう。
 彼女は虚ろな目で電車の中吊りを眺めて、うっすらと笑みを浮かべると、再び僕に背を向けて、闇だけが広がる白い世界を見つめ始める。
 気づくと、車両の出入り口に一人の男が立っていた。男は僕が気づいたと判断すると、雪の降りしきる中、しもやけで真っ赤になった手を差し出して、にっこりと笑った。
 男は何も持っておらず、その手は赤く、ひび割れていて、ごつごつとしていた。干ばつした池を思わせるような、乾いた手だった。
 僕は彼の前で立ち止まり、自然とポケットから改札ばさみを取り出して、彼に渡した。なぜ渡すのか、彼が誰なのか、何も分からない。だが、そうするべきだと分かっていた。そして帽子を脱ぎ、彼に被せてやると、彼は鼻歌を歌いながら改札の方へと消えて行った。その歌は、いつかどこかの港で聴いたことのある歌のような気がした。
 僕が最後に書いた小説は――なぜそんなものを思い出そうとするのだろう。でも、思い出さねばならない気がする。その小説では、絶望に挫かれ、自ら命を絶った人間がやってくる駅があった。そこからは一方通行の電車が出ており、主人公はそこで改札係を務めている。そして毎日毎日、知り合いも知らない者も見送り続けていた主人公は、自分が誰であったかも忘れていってしまう。
 僕は、僕が誰であったか覚えている。でも、どうして僕は改札係をしていたのだろうか。本当ならとっくに電車に乗って、新しい地へと出発していたはずなのに。
 僕は一人分ぽっかりと空いた座席に腰かけた。まるで僕が座るために空けて待っていたかのような席だった。右隣にはスマートフォンでSNSをチェックしている女子高生。左隣には文庫本を読んでいるサラリーマンが座っていた。サラリーマンが読んでいるのは僕の小説だったし、女子高生はSNSの中で僕の本のことに触れていた。
 僕は二人の人間が、例え世界から旅立って新しい地へと向かおうとする二人だって、僕の作品に思いを馳せていてくれたことに感激し、震える唇から嗚咽がもれそうになるのを堪え、体を抱きしめるように両腕で抱えて、肩を震わせた。それと同時に、彼女に伝えなければ、とも思った。僕はあなたの作品を読んで絶望したのです。絶望するくらいに、素晴らしい作品でした、と。それが彼女のためになるかどうかは分からない。だが、読者は声をあげるべきなのだろうと思う。あなたの作品を読んで、あなたを知っている人間が、ここにいますよということを。
 顔を上げ、涙がつつと頬を伝って流れ落ちるのを留める術もなく、熱い雫が滑り落ちるのを感じながら、息を吐き出した。車内は暖かいはずなのに、白い息が浮かび上がった。息は闇の水底を泳ぐ小さな魚のように見えた。
 車掌が警笛を鳴らす音が、白い静寂を切り裂くように鳴り響いた。

〈了〉


■サイトマップは下リンクより

■マガジンは下リンクより


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?