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紙ヒコーキは谷を越えて

 七月三十日と書いた紙ヒコーキを明日に向かって投げた。
 草が伸び放題で手入れされていない街区公園で、僕は一人佇んで紙ヒコーキが飛ぶのを見つめていた。
 遊具は錆びついて、塗装は剥げて無惨な姿を晒しているのに、公園の西三分の一ほどを占有するゲートボールスペースは草一つなく、地面も整備されていたし、用具を収めて置く倉庫も新調されてぴかぴかだった。
 紙ヒコーキはふらふらと左右に揺れつつもゆっくり飛び、ブランコをすり抜け、滑り台の脇を飛んだ。とんぼが一匹、紙ヒコーキと並んで飛んでいた。オニヤンマだった。
 太陽は南中にあって、地面に陽炎を生じるような熱と白い光を情け容赦なく降り注いでいた。飛んでいく紙ヒコーキを見送るのにも眩しさを感じるほどで、僕は右手を掲げて庇を作って見つめていた。もみあげの辺りからじわじわと汗が滲んできて、すうっと首筋へ流れる。鼻からもぷつぷつと汗が湧いて出るように思えて、左手の平で何度も顔を拭った。
 紙ヒコーキとオニヤンマは仲良く飛んでいた。紙ヒコーキの方が遅いので、オニヤンマは先に飛んで止まり、先に飛んで止まり、ということを繰り返して紙ヒコーキを待った。
 紙ヒコーキは左右のブレが大きくなり、酔漢のようによたよたと飛んだ。それでもまだ落ちずに飛んだ。よし、と僕は湿った左手を握りしめるとぬるりと滑ったが、構わずに小さくガッツポーズをした。
 七月三十日は僕が片想いしていた明日香さんの命日だった。
 正確には命日とは呼べないかもしれない。彼女は世間的には行方不明で、亡骸は見つかっていない。最後に目撃したのは僕だが、僕の証言は現実離れしていたため、警察からひどく疑われて、一時期は尾行がついていたほどだった。
 明日香さんは僕の目の前で電車に飛び込み、そして消えたのだ。
 あの日、明日香さんと僕は昇降口でたまたま出くわして、思い出話をする内に自然と一緒に帰る流れになり、二人とも電車通学だから話しながら駅に向かった。
 明日香さんと僕は幼稚園から高校まで一緒だが、中学のときは三年間一緒のクラスになる機会がなくて、話したのはこの日が久しぶりだった。だから僕はあまりに嬉しくて舞い上がり、表面上は平静を装っていながらも、誰もいなければスキップして走り出しそうなほど、うかれていた。
 駅に着いて、どんな話をしていただろう。多分、最近何の本読んだ、とか訊かれて、ちょっとかっこつけたくなって、父さんの本棚に並んでいた小説を思い浮かべて、「スタンダール、とかかな」と言ってみたりしていた。彼女は目を輝かせて、「『赤と黒』、いいよね!」と前のめりに話題に食いついてきたので、僕はかえってしどろもどろになりながら、「うん、いいよね、『赤と黒』」とか苦し紛れに答えていた。
 それから彼女が「わたしは村田沙耶香かなあ」と言って思案気に上方に視線を走らせた直後、急に一切の感情が削ぎ落ちてしまったように虚ろな目、微かな曲線を描く眉、軽く一文字に結ばれた唇、と顔が凍りついたかのように固まった。
 そして、ゆっくりと僕の方を見て、「紙ヒコーキは飛ばなかったの」と言い残して、ちょうどやってきた特急列車の前へと飛び降りた。衝突の瞬間から本能的に目を逸らしてしまったため、彼女が轢かれる瞬間は分からなかったが、特急は減速することなく、そのまま走り去って行ってしまった。
 何人かの人が「ねえ、今のって」とか「飛び込み?」と言い交わしているのが聞こえた。不思議だったのは、人一人が衝突したのに、音が何もしなかったことだ。
 僕は恐る恐る線路を覗き込んでみたけれど、線路の上には何ら彼女を示す遺留物は認められなかった。彼女は消えてしまったのだ。僕はどうしていいか分からず、次にやってきた電車に乗って帰り、今日見たことは夢だったと信じて眠りにつき、次の日学校に行って明日香さんのクラスを尋ねると、彼女は欠席していると告げられ、そしてその翌日、明日香さんの両親が失踪届を出したことを聞かされる。
 それから三日としない内に彼女と最後に行動していたのが僕だと突き止めた警察によって事情を聴かれ、その後一週間ほどは警察の気配を感じながら暮らしていたが、やがて疑いは晴れたのか、僕への尾行はなくなったようだった。
 明日香さんはどこへ消えたのか。
 最後に言い残した、「紙ヒコーキは飛ばなかったの」とはどういう意味なのか。
 今もってそれらは謎に包まれたままだ。
 じゃあなぜ、僕が今こうして紙ヒコーキを飛ばしているかと言うと、明日香さんの夢をみたからだ。
 明日香さんは千尋の谷が広がる、断崖の向こうに立っていた。そこは七月三十日だった。理由は分からないが、とにかくそう感じた。そして僕が立っている崖は、七月三十一日だ。彼女は永遠に七月三十日に閉じ込められてしまい、出ることができなくなっていた。
 そして懸命に紙ヒコーキを折っては飛ばし、僕の方へ渡そうとするのだが、すべて谷の底に吸い込まれてしまい、彼女は途方に暮れて座り込んでしまう。やがて出られないことを悟った明日香さんは、谷の底へと身を投じてしまう。あの日電車に飛び込んだように。彼女は消え、僕だけが残される。対岸には作りかけの紙ヒコーキが横になっていた。
 目覚めると、汗をびっしょりとかいていた。時計を見てまだ午前三時であると知ってもう一度横になろうとして、枕元に何か落ちていることに気づいた。
 それは紙ヒコーキだった。黄色い折り紙で折られたオーソドックスな形の紙ヒコーキ。試しに投げてみると、まったく飛ばず、直角に落下して床にぶつかった。僕はきっとこれは明日香さんが投げていた紙ヒコーキに違いない、と半ば盲目的に信じ込んだ。そうであってほしいという思いが強かったせいかもしれない。
 僕は紙ヒコーキを広げ直し、もう一度丁寧に折り始めた。何度か試行錯誤して、真っ直ぐ飛ぶようになったときには、夜が白んで明け始め、時計は午前五時を示していた。
 僕は公園にやってくると、七月三十一日と地面に木の棒で書き、そこから夢の中で見た谷の幅ほど離れたところに七月三十日と書いて、その上に立ち、黄色い紙ヒコーキを構えて、息を飲み、タイミングを逡巡し、でも意を決して、明日香さんが七月三十日から帰ってくることを願って、紙ヒコーキを投げた。
 そして今、不格好ながらも紙ヒコーキは飛んで、七月に生じた谷を越えようとしていた。高度は下がってきていたが、まだ十分なものを保っていた。もうあとわずか。祈るように見つめていたところに、その予兆はやってきた。
 公園を囲むヒノキなどの枝葉がさらさらと震えて風になびき始め、足元の雑草も嘲笑うように震えた後で、草木を激しく揺らす突風が吹いた。
 ざあっと潮騒のように木々がさんざめくと、ふらふらしていた紙ヒコーキは横風に煽られて腹を晒すように左に傾いで流され、機首が七月三十一日から逸れた。このまま進んでも、目的の場所には辿り着かない。
 僕は歯噛みして、危うく風に対して悪態を吐くところだった。だが、先行していたオニヤンマは突風の中でも物ともせず、すうっと紙ヒコーキに近づくと傾いだ紙ヒコーキを反対側から押し出すようにぶつかり、そのまま体を沿わせて紙ヒコーキの飛行を助けた。
 そして紙ヒコーキが七月三十一日の真上に辿り着くと、オニヤンマは素知らぬ顔で離れ、一度僕の方を向いた後で上空へと舞い上がり、どこかへと飛び去ってしまった。
 明日香さんの紙ヒコーキは七月三十日を越えて、七月三十一日に辿り着いた。あとは、彼女が帰ってくるのを待つだけだ。
 僕は七月三十日と地面に書いた文字を足で削って消して、七月三十一日の上に立って、彼女を待った。僕の足元には、長い空中遊泳を達成し、誇らしそうな出で立ちにさえ見える黄色の紙ヒコーキが横たわり、翼をささやかな風に揺らしていた。
 日が暮れるまで僕は待った。ずっと立ち尽くしたまま。けれども、彼女が現れることはなかった。
 それはそうだ。紙ヒコーキが飛んだからと言って、失踪した人間が帰ってくるわけない。僕は悔しくて、悲しくて、自分が情けなくて、足元の紙ヒコーキを散々に踏みつけた。黄色の紙ヒコーキは僕の靴跡を刻みつけられ、土や砂に塗れ、折れ曲がり潰れて、見るも無残な姿になった。
 そして僕はその無残な紙ヒコーキが、まさに自分自身の鏡像であることを悟り、それを拾い上げて胸に抱き締め、声を上げて涙を流した。
 一度疑われたものは、その潔白が証明されたとしても、疑わしい目で見られ続ける。僕は、僕の家族は、まるで僕が殺人犯であるかのように見なされ、地域から迫害された。
 学校にも居場所はなかった。直接的な暴力などはなかったにしても、間接的に無視をして、いないものとして扱う、無言の暴力が常に僕を嬲った。街を歩いていても、後ろ指を指される。
 僕が何をしたというのだろう。彼女が姿を消す、その場面に居合わせただけで、なぜこうした責め苦に遭わねばならない?
 だから、僕はなんとしても彼女を見つけ出さなければいけないのだ。彼女の口から、僕は何ら彼女の失踪に関わっていないと証明してもらうために。
 恋心は、憎しみに変わる。
 勝手に失踪した彼女を僕ほど憎んでいる人間はいないだろう。彼女が消えさえしなければ、僕は殺人犯のレッテルを貼られずに済んだのだ。彼女こそがすべての元凶で責めを負うべき存在であり、僕は巻き込まれただけの善意の第三者なのだ。
 だが、すべては徒労だ。ぐしゃぐしゃになった紙ヒコーキを抱え、蹲って地面を殴り続けた。皮膚が切れ、血が滲もうとも、爪が割れようとも、殴り続けた。涙を、鼻水を流しながら。
「あの、大丈夫?」
 女性の声がして、僕はそれを聞いたのが遠い過去のことのようにも、つい最近のことのようにも思えたが、知っている声だった。そう、僕が探し求めていた声。
 顔を上げると、明日香さんが立っていた。Tシャツにジーンズ姿で、手には駅前の学習塾で使っている鞄を提げていた。
「明日香、さん?」
 僕が名前を呼ぶと、彼女は警戒したように表情を曇らせ、二歩後ずさった。
「あなた誰? どうしてわたしの名前を知ってるの」
 僕は一瞬頭に血が昇りかけたが、思いとどまって、涙と鼻水を袖で拭って、名前と、幼稚園から高校まで同じ学校に通っていることを説明すると、彼女は一層訝しそうに「わたしはあなたを知らないわ」と冷たく突き放した。
 彼女はスマートフォンを握りしめ、今にも通報しそうな様子を見せたが、僕の手の中に黄色い紙ヒコーキがあることを認めると、はっと足元を見て、七月三十一日と書いてあることに気づき、顔色をさっと変えた。
「思い出した。でも、そんなはずない。だって、彼は十年前に死んだはずだもの。十年前の、七月三十一日に」
 明日香さんは恐怖に顔を引きつらせていた。公園の電灯がじりじりと音をたてて燃え、ぼんやりと明日香さんの青白い顔を浮かび上がらせている。羽虫が僕の耳元を五月蠅く飛んでいる。払っても払っても戻ってくる。
「あなたは誰。本当は誰なの。彼を名乗るなんて、何が目的?」
「目的なんて……何もない。僕は僕だ。僕はただ、君を見つけて、自分の居場所を守りたかっただけなのに」
 僕は血と土にまみれた汚れた手を明日香さんに向けて伸ばした。その僕の手の向こうに見える彼女は怯え切っていて、鞄を霊験あらたかな護符のように抱き締めて、「いや!」と叫ぶと、踵を返して一目散に公園から走り去った。
 疲労困憊していた僕にはそれを追いかける力はなく、手を虚しく伸ばしたまま項垂れて、静かに涙だけを流した。
 何が起こったのか分からない。あれは間違いなく明日香さんだった。なのに僕を知らないと言う。あまつさえ、死んだとも。明日香さんが意図的に嘘を吐いているのか、周囲から存在を否定され続けたせいで、僕の記憶や頭がおかしくなってしまったのか、どちらにしてもろくなことが起きてはいないということは、確からしい。
 僕は立ち上がって砂埃を払い、くしゃくしゃの紙ヒコーキをズボンのポケットに押し込むと、地面に書かれた七月三十一日を憎しみを込めて蹴り、踏み、荒らして消すと、家路についた。
 公園から僕の自宅までは五分ほどの距離なのだが、どういうわけか家に辿り着けなかった。正確には家の場所には辿り着いたのだが、そこに僕の家はなかった。二階建てだった僕の家は、見知らぬ平屋に変わっていて、近所の表札を見て回ると、知っている家と知らない家が混在していた。
 何かがおかしい。そう思った僕は自宅らしき場所の近くにあったゴミステーションから段ボールを引っ張り出してきて、自宅が見える電柱のそばで段ボールにくるまって隠れ、そこを見張った。
 いつの間にかうとうととしてしまい、はっと起きると朝日が昇っていた。自宅を観察していると、父親らしき男がスーツ姿で出てくるが、まったく見覚えがない。次に母親がゴミ捨てに出てきて、そのまま出かける。最後に僕と同年代くらいの学生が出てきて、隣の家のインターホンを鳴らす。するとセーラー服を着た明日香さんが慌てて出てきて、二人は人目を窺うと、そっとキスをしていた。
 僕がいたはずの場所には見知らぬ男がいる。僕がほしかった、平穏な暮らし。明日香さんと恋人である人生。存在を否定するだけでなく、根こそぎすべてを奪われた気さえした。
 呆然としていると、肩を叩かれて振り返る。そこには若い警察官が立っていた。
「ここで何をしている。ちょっと交番まで来てもらえるかな」
 僕は抵抗する気力もなく、小さく頷いて警察官の後について交番に行き、椅子に座らせられると、名前や住所を訊かれたので正直に答えた。
 若い警官は何か引っかかったのか、電話をとって、電話口で僕の名前や住所を告げて、相手の反応を待った。その間も油断なく目を光らせて、僕の一挙手一投足を見張っていた。
「そうですか。分かりました」
 警官は穏やかな声で応えると、受話器を置き、怒りと高ぶった正義感から鼻息を荒くして、僕に向き直った。
「もう死んでいる、とでも言われましたか」
 冗談めかして言ったのだが、間違いではなかったらしい。「ふざけるな」と警官は冷たく鋭い口調で切り捨てると、ペンとメモ帳を僕の方に押し出して、本当の名前と住所を書くようにと迫った。
「事故で亡くなった子の名前を名乗るなんて、悪趣味だ」
 やはり、僕は死んでいることになっている。明日香さんが嘘を吐いたわけではない。僕はもう死んで、僕がいるはずだった場所には別の家族が住んでいて。じゃあ僕は、どこへ行けばいいんだ?
 僕はクラスメイトで名前と住所を覚えていた、親しい友人の名前と住所を書き、警官に突き返す。
 警官は傲慢な態度でそれを受け取ると、再び電話を取った。そして僕の名前などを伝えている途中で、交番を家と勘違いして入ってきた認知症の老人が警官を息子だと思い込んで、畑を見てきてほしいとか、お嫁さんの料理の味付けはちょっと濃いからどうにかしてくれ、など次々と捲し立てたので、警官も電話に老人に、と僕に払う注意が逸れたので、その一瞬の隙を突いて交番から飛び出すと、ただひたすらに走って逃げた。
 どこへ逃げたらいいか分からない。僕には行く場所がない。僕はこの世界では死んだ人間だ。ここはきっと、僕が元々いたのとは別の世界なのだ。七月三十日の谷を越えたとき、世界の壁をも越えて、別の世界にやってきてしまったのではないか。しかも、その世界では僕はもう死んでいるときている。
 僕はそれが何かの間違いだと誰かに言ってほしくて、かつて通っていた書道教室や、馴染みの美容師さんがいる美容室、友だちの家。訪ねたが、どこでも汚れ切った見知らぬ若者の僕を胡散臭げに眺めて、僕など知らないと冷たく突き放すのだった。
 もう行くところもないな、と途方に暮れていて、しかし足は動かし続けていて、気づくと駅前に立っていた。ああ、そうか、と僕は小銭を出して切符を買うと、階段を上り、下ってプラットホームに立った。人はまばらだった。
 僕はふらふらと電光掲示板の下に立った。次に来る電車は特急だ。五分後に来る。
 ホームの自販機で、甘すぎると噂になっていた缶コーヒーを初めて買って飲んでみた。確かに甘かった。砂糖の塊を鼻から突っ込まれたような甘さだった。辛いものを食べて咳き込んだ経験は何度もあるが、甘いものを飲んで咳き込んだのは人生で初めてだった。
 半分ほど飲んで、山吹色のプラスチックのベンチの上に缶を置くと、電車待ちの最前列に並んで列車を待った。
「あなた」と隣に並んでいた女性が声を上げた。視線を巡らせると、明日香さんだった。彼女は制服から私服に着替えていて、めかしこんでいる。これから出かけるのだろう。もうそんなに時間が経ったのか、と妙なことに感心した。
「つきまとわないで。どういうつもりなの」
 見えない防壁を張ったような彼女の頑なな態度に、僕はじわりと涙が込み上げてくるのを感じた。最後に明日香さんと話したのは、スタンダールと村田沙耶香のことだった。その取り合わせのちぐはぐさに僕は笑ってしまい、目の前の明日香さんは一層不審げに眉を寄せて睨みつける。
「心配ない。つきまとっているわけじゃないから」
 言いながら僕は腕時計を眺める。列車が来るまで、あと一分。
 僕はポケットからくしゃくしゃに潰れた紙ヒコーキを取り出すと、なんとか形が戻るように伸ばしてみたりしたが、撃墜された戦闘機のように機首がひしゃげていて、翼もよれよれだった。でも、その紙ヒコーキは僕に相応しい、と思った。
 僕は紙ヒコーキをホームの向こうに広がる住宅を目がけて投げる。ふわっと一瞬浮かび上がった紙ヒコーキは急降下し、また持ち直したか、と水平に飛ぶと、錐もみ回転しながら線路の上に落ちた。
 日本の列車は時間に正確だ。それは世界に誇るべきであると同時に、悪しき呪縛でもあると思った。
 特急がホームに入ってくる。警笛を鳴らす。
 僕の心から心が消えていくような気がする。今では、心があった場所に、本当にそれがあったのか分からなくなった。僕はこの世界に存在しながら、存在しないものであるのと同様に、心というものも、存在しながら存在しないものなのではないか。
 僕は感情を失った虚ろな目で、明日香さんを見た。彼女は僕の知る明日香さんではない。でも、僕は彼女の姿を、生きている姿をその目に焼き付けたかった。彼女に最初に会ったら抱くのは憎しみだと思っていた。でも、そうではなかった。憎しみが湧き上がり、その泉から水を掬ってみたら、それは憎しみではなくて美しい、星屑を散らしたように光る水――人が愛しさと呼ぶものだった。
「紙ヒコーキは飛ばなかった」
 彼女に向かってそう言い残すと、線路の上の黄色い紙ヒコーキに向かって飛び降りた。着地し、それを左手で掴んだ瞬間、けたたましい警笛の音が響いて、眼前に流線型の特急列車の顔が迫っていた。時間が止まったようだった。僕は迫る特急列車を前にしながら、明日香さんも列車に飛び込んだ時、こんな虚無を抱えていたのだろうか、と考える暇があった。そして僕は、ようやく彼女を理解できたような気がした。
 僕には八月一日がくることはなかった。

〈了〉


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