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ハイボールの中にある真理

ネグレクト、という言葉がある。電子辞書を引けば、「①無視。否定。」などと書いてあり、その下にはよく分からぬ実例文みたいなものが数例載せてある。ネグレクト、ネグレクト、無視否定。

なぜこんなことを急に書き始めたかというと、自分は今、年末師走の繁忙期、木曜日という平日のど真ん中、襟元を引き締めて明日の朝も元気に仕事に立ち向かわなければならないそんな日の夜に、衝動的に酒を飲みたくなり、雪道をファミリーマートへ直行、プルタブを開け衝動的に角ハイボールを流し込むというどうしようもない愚行、地獄行の大罪を犯しているからである。ひとしきりごくりとやった後に、脳漿の中にじんわりと温かい危険な快感が広がり、脳全体を包み込んでいく。ヤバイ。ヤバすぎる。このような強迫的な飲酒の仕方は、恐ろしいアルコール依存症への門戸をガンガン叩くものであり、ほら、耳元で閻魔がほくそ笑む声がする。悪魔どもが「いいぞう、きみぃ」なんて言ってやがる。


ですが神さま、どうかこの愚かな若輩者の言う事を聞いてくださいまし。僕のように、ただいたずらに知識ばかり蓄え、「アルコール依存症は非常に危険な精神疾患の一つであり、一度罹ってしまったら最後、自律神経を脅かす非常に辛い離脱症状に苦しむことになる」なんて口元でぶつぶつ呟きながら、安くて質の悪い酒を流し込むこと、これほどの快楽もまたないのでございます。ああ、お許しくださいまし。なんてことでしょう。なんてことでしょう。「これは悪いことだ!身体に好くないことだ!今すぐに辞めるべきことだ!」なんて思いながら、その「身体に好くないこと」をだらだらと続けること、これほどの快感もまたないのでございます。なんという因果でしょう。私は、自分の生命の灯が酒臭い吐息に煽られ、ちろちろと今にも消えそうな、頼りない揺れ方をするのを見るのが、この上なく大好きなのでございます。


セルフ・ネグレクト、という言葉があります。これは独身者や、苦しみながら生きている人、その他さまざまな不幸な背景を持った方などが、自分の健康や生活を顧みず、自分の身体をいじめるような習慣ばかりを続ける、一般的に不可解な行動を指すものとしてマスコミやTwitterに取り上げられております。ですが、これは紛れもない快楽なのです。この快楽、ネグレクトの何とも言えない気持ちよさは、サウナと筋トレを欠かさず、身体を始終大切に取り扱っている人には決して分からないシロモノに違いありませぬ。いや、分かんなくていいんだけれども。とにかく、「これをやると病気になる」とか、「これをやるのは良くない」とか考えながら自分の行動を決めていくのは、たまらなく苦痛なのでございます。それは、この私の薄い網膜に、暗黒の未来をまざまざと見せつけてくるのでございます。「チミはいつか老いさらばえて、今ここで焼酎を飲んだことを後悔することになるだろう・・・食道がんの術後疼痛に苦しみながら・・・」なんて考えたりして、嬉しいわけないじゃないですか。今気持ちよければ何でもいいのです、今楽しければ何でもいいのです!明日死ぬかもしれないのに、数十年後の癌の心配をするなんて、なんて贅沢な話でございましょう?人間は、もっと刹那的に生きていいのではありませぬか?未来について考えすぎて、現在を紛失してはいまいか?いったい自分はいつまで生きるつもりなのだ?何でもよいから、浮世の憂さみたいなものを吹っ飛ばして、元気よく生きて、そしてさっさと死ぬのが、正しいのではないでしょうか・・・などと、考えてみる。


自分を大事にすること、これはとても素晴らしいことである。自分を大事にすることで、他者への愛を育むことが出来る・・・ような気もする。だが、自分を大事にすること、同時にこれ以上の苦痛もないのであり、それは、自分のことを顧みすぎること、常に自己利益の獲得に汲々として、損得勘定にがんじがらめにされるような不幸な状態と非常に酷似している。「自分の身体を犠牲にできないこと」は、まぎれもない苦痛なのであり、それは美しく明るくきらきらした未来という、どうしようもなく頼りない十字架を背負ってランニングを敢行するようなものではないか、なんて思ってみたり。かのキリストも、エリエリラマサバクダニと叫んで、丘の上で憤死したその瞬間に感じていた幸福、これこそ、このセルフ・ネグレクトの快楽そのものではないか、なんて、聖夜の前日の夜に、考えてみたりする。


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