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チェーホフ「可愛い女」で読む、むきだしの美しい愛情の切なさと愁い

ーーー「自助」だとか、「自立」だとかはよく目標に掲げられる。自分の足で立っている人間は確かにかっこいい。だが、誰かのことがいつも大好きで、人を愛さずにはいられない人間は、たしかにいる。いるったらいる。いるのだ!!

皆さんはこのオーレンカを笑うだろうか?「可愛いひと」を笑うだろうか?笑うのは、あなたが誰よりも強い証拠である。そして、鈍感な証拠である。

誰の中にもオーレンカはいる。もしかしたら、私たちが生きていられるのは、今も生きているたくさんのオーレンカのおかげかもしれないのである。チェーホフの傑作、「可愛い女」についてーーー


数百年前のロシアのお話。

オーレンカという、退職した小役人の娘がいた。

彼女は愛らしい女だった。なぜなら、彼女はしょっちゅう誰かしら好きでたまらない人があって、それがないではいられない女だったからだ。

言っておくがこれは皮肉ではない。それは彼女の「愛し方」を見れば分かることだった。

初めはお父さんだった。だが、そのお父さんは今は病気になって、暗い部屋の肘掛椅子に腰かけてゼエゼエ苦しそうに息をしている。叔母さんが大好きだったこともあるが、その人は2年に一度くらい遠方から彼女に会いに来るのである!初等女学校に通っていたころは、フランス語の男の先生が大好きだったことも・・・

彼女は物静かで、気立てが優しく、情け深い娘さんだった。

彼女の人の愛し方は、いわゆるメンヘラのように、誰かへの依存を愛情と取り違えている、ということではなかった。彼女は、目の前にいる愛する人と、自分の内面とを瞬く間に同化させ、まるでキリストのように自分の持っているものをなんでもかんでもその人のために投げ出してしまうのである。

昔、彼女はとある劇団の経営者と恋をした。とはいっても、その経営者は気息エンエンであり、自転車操業であり、客が全く来ないことをいつも空模様のせいにしているような男だった。

「どうだい?オーレンカ?つまりこれなんでさ。我々の渡世ってやつは。全く泣きたくなるぜ!働く、精を出す、うんうん唸る、夜も眠れない、ちっとでもましなものをやろうと考えに考える。ところがどうです?まずはあの見物客ども!こいつらが無教育で野蛮と来ている!こっちじゃ、もう最高レベルのオペラや歌劇を出してやるんだが、それが果たしてあの連中の求めるものでしょうか?なんのなんの!やつらには闘牛でも見せてやりゃいいのさ!俗悪なものをあてがいりゃそれでいいんでさ!!おまけにこの雨ときたら、もう、お話にも何もなりませんよ!見物はまるで来ない。しかし私の方はショバ代だの役者の給料だのを払わなくてはいけない!!ええい!なんてこった!!水浸しにしちまうがいいや!この世界を水浸しにしちまうがいいや!!」

そのまた翌日も同様だった。

オーレンカは黙って彼の顔を真剣な顔つきで見ていたが、その目には涙の浮かぶことさえあった。そのうち、彼女はその経営者の不幸せに恋をしてしまったのである。

彼の方から申し込みをして、彼女たちは結婚した。

彼は幸福な気持ちだったが、あいにく婚礼当日の昼が雨で、またその夜にも雨が降ったので、彼の顔からは終始絶望の色が消えなかった。

それから、オーレンカは彼のために懸命に働き出したーーー

彼女は夫の帳場に座って、白くきめ細かいほっぺたにばら色の灯りをほんのり載せながら、いつもにっこりと微笑み、出費を帳面に控えたり、役者たちに給料を渡したりした。

また彼女は、今じゃもう知り合いの誰彼にも向かって、この世で一番素敵なもの、一番大切で必要なものは何かというと、それはほかならぬこの芝居で、本当の慰めを得たり、教養あり人情ある人への道は、芝居をおいて他にはあるまい、などと言い言いするのであった。

「けどねえ、見物客にそれが分かっているのでしょうか。あの連中の求めるのは小屋かけの見世物なんですわ!あの人たちには闘牛でも見せてやればいいんですよ!」

彼女は夫の吐いた意見をそっくりそのまま受け売りするのであった。夫と同じように見物が芸術に対して冷淡だ、無学だ、などと囃し立てたり、挙句の果てには、地元の新聞に彼らの主宰する催し物の悪口が書かれたりすれば、もう涙をぽろぽろこぼして、新聞社に掛け合いに行くのだ。

その町の誰もがーーー彼女のことを愛していた。彼女のばら色の頬や、愛くるしい笑顔を見るたびに、男も女も、老いも若きもそれってこういうのだった。

「可愛いひとねえ・・」

とうのオーレンカは、夫の少ない髪の毛を撫でまわしながら、嘘偽りのない本心でこういうのであった。

「あなたはなんて立派なんでしょう・・・あなたはなんて素敵な人なんでしょう・・・」

だが、悲劇は突如起こった。

彼女の夫は、ひと儲けしようと劇団を連れてモスクワへ旅立っていったが、寒さのせいだろうか、彼は途中で心臓麻痺を起こして死んでしまったのである。

それはある晩のことだった。夫がいないと夜も眠れない彼女は、雄鶏がいないと眠れずに一晩中泣き続ける雌鶏と、自分の姿をひき比べたりしながら、窓の外を眺めていた。突如、不吉なベルの音がした。

「ゴシュジン、キョウ、キュウセイ、シンゾウ」

電報にはそう書いてあった。

「愛しいあなた!!」オーレンカはもうおいおい泣き出した。「あたしの懐かしい、愛しいあなた。どうしてあなたは私とめぐりあったんでしょう!!どうしてあなたに恋なんかしたんでしょう!あなたはこのオーレンカ、哀れなオーレンカを棄てて、いったい誰に頼れとおっしゃるの?」

葬儀はあっけなく済んだ。埋葬が終わると、オーレンカは自分の部屋に入るなり寝台の上に伏し倒れて、ついぞ聞いたことのないような嘆きの大声をあげながら一晩中泣くのであった。あまりにもその声が愛おしく、そして真実の悲しみに満ちていたため、道行く人々はその声を聴くと皆十字を切って彼女のために祈るのであった。

「可愛いひとがねえ・・・」

ところが、三か月も経つと、彼女は材木屋の主人に恋をした。すると彼女の頬にはまたばら色の赤みが戻ってきて、誰彼かまわずこんなことを言うようになった。

「今はもう材木業界も大変でしてね。昔は個々の土地の材木を購っていたんですけれども、今じゃうちの夫が毎年材木の買い出しに遠方まで行かなければならないのですよ。その運賃がまた大変でしてねえ・・・」

彼女は頬を押さえながらよく言うのであった。

「運賃がねえ。」

彼女はもうずっと前から材木屋をしているような気がし、この世で一番大切なのは材木のように思えた。夫が外に遊びに行くのを嫌う性分だったので、休日もずっと家に籠っていた。だが、家からは終始彼女のかわいらしい、幸せそうな笑い声が聞こえるのであった。

「わたくしども自分の腕でご飯をいただいております者には、時間つぶしをする余裕なんてありませんわ。芝居なんぞどこがいいんでしょうねえ?」

彼女はよく言ったものだった。

だが・・・

その材木屋の夫も、やがて風邪をこじらせて死んでしまったのである。

「あなた、こうしてこの私を見棄てて、いったい誰に頼れとおっしゃるの?ねえ、あなた!!これからどうやって生きていったらいいの?ねえ、教えてよ。」

彼女はもう一生黒い服に白い喪章をつけて過ごすことに決め、外に出るのも時たま協会に出入りする時だけになった。それからは、まるで修道尼のように引きこもってしまったのである。

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それから彼女がどんな生涯を送ったかは、想像に難くないだろう。彼女はその後も何度も恋をして、何度も人のことを大好きになった。だが、(これはまるっきり不可解な、しかし呑み込むべき事実なのだが)彼女が大好きになった人は皆、ことごとく死んでしまうのであった。そのたびに、彼女は大いに嘆き悲しみ、この世の終わりではないかと思えるほどの叫び声をあげて泣くのであった。

「愛しいあなた、どうして?どうしてなの?この哀れな私に、誰を頼れとおっしゃるの?」

やがて彼女が老齢に達したとき、彼女の周りにはーーーついに誰もいなくなってしまった。すると、彼女はまるで抜け殻になってしまったのだった。

もっとも問題だったのは、彼女には自分の意見というものが全くないことであった。一人さみしく過ごしている彼女の眼には、身の回りにある物の姿が映りもし、周りで起こることが一応会得できるのだが、そこからどう言えばいいのか、どういう風に意見を組み立てていけばいいのか、てんで分からなくなってしまったのである!!

何一つ意見がないということは、なんと恐ろしいことなんだろう・・・

それは、生きながら死んでいることと同じであった。

劇団の主人がついていたときも、材木屋がついていたときも、どんな意見を求められても述べるに全く不自由しなかったのが、今では何も考えることもできず、ただうつろな目をして周りの物を眺めているだけであった。いや、もはや眺めてすらいないのかもしれなかった。






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