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【短編小説】殴り合い

エヌ氏の苦悩は深刻だった。

彼の最大の悩みは「心から楽しめない」ことにあった。

彼は愛想もよく、ノリも良い男だった。たくさんの友達や知人から遊びの誘いを受けることがよくあった。もちろん彼は一つも断ることなく参加した。

飲み会やカラオケ、ボーリングなど、ありとあらゆる年配の人の持つ青春の記憶の一ページにはさまれているような若々しい遊びは一通り経験していた。

だが、気の毒なことだがーーー彼はなにをやっても心の底から楽しめないのであった。タバコの煙の濛々と立ち込める中でビールを飲んでも、一晩中飲めや歌えでのどがカラカラになっても、心の底から楽しいと思えたことが一度もなかった。

「そういえば明日は○○をしなきゃいけないんだっけ・・・こんなことしてていいんだろうか。」

彼は苦労性だった。まじめで、誠実で、心優しい青年ではあったものの、その心の中では常にやらなければいけないことや様々な仕事の内容などがギッシリと詰まっており、遊べば遊ぶほどまるで自分が悪いことをしているような気分になって落ち込んでしまうのであった。

趣味も持たず、一般的な遊びをも楽しめない。仕事には熱心に取り組んだが、それは決して仕事をするのが楽しいからではなく、ただ「一生懸命やらなければならない」と彼自身が思い込んでいるせいであった。そして、鋭敏な彼はそのことに気づいていた。つまり、自分が人生をまったく楽しめていないということに・・・

やがて彼は生きることに疲れ果ててしまった。


ある夜、彼はひとりぼっちでベランダに出てビールを飲んでいた。すぐ下には街灯があり、細い道路があった。猫があくびをしながら通り過ぎていった。

「なにか、『これさえあれば幸せ』というものがあれば・・・」

彼はボーッと考えていた。酒は気分を沈鬱に浸していくばかりだった。


「こんにちは。」

どこからか声がした。

エヌ氏は顔を上げた。

そこには、美しい女と、スーツを着た男がいた。

たしかに彼の部屋は一階であった。ベランダから訪問者が来てもおかしくはない。

「まったく!本当につまらない!どこに行っても、何をして遊んでもたかが知れてる。その時間が過ぎてしまえば、毎日同じことの繰り返し。ねえ、そうでしょう?あなた。」

スーツの男は馴れ馴れしい感じでこう言った。

「まったくその通りですよ。ほんとに生きているのが嫌になる。」

エヌ氏は言った。

「殴り合いをしましょう。」

「は?」

「わたしと殴り合いをするのです。もしあなたが私に勝ったら、この子を一晩だけ差し上げましょう。もしあなたが負けたら・・・そうですね。あなたの魂をいただきます。」

その女はあまりにも美しい姿をしていた。こんな綺麗な女、正直見たことがない。まったく久しぶりのことだったが、エヌ氏は自分の胸がどきどきするのを感じた。

「魂を取られると、どうなるんです?」

「いやあ、なんてことないですよ。死にやしませんから。その代わり、あなたは何も感じなくなりますよ。ただただ毎日の仕事を淡々とこなすだけの日々をこれからも送るだけです。ただ、何かに感動したりとか、喜んだり、悲しんだりとかは一切無くなります。」

「なんだ。それなら今の生活とたいして変わらないじゃないか。」

「おっしゃる通りです。近頃はあなたみたいにまだ魂を持っている人間が少なくなってきましてねえ。我々も大変なんですよ。どうして人間たちは大人になると自分の魂を自ら粗末に捨ててしまうのでしょうね。まあ、そんなことはどうでもいいや。あなた、どうします?」

「あんた、悪魔ってやつですか?」

「まあ、人間にはそう思われてるみたいです。どうです?この取引、わるくないでしょう?」

エヌ氏は考えた。自分の人生はまだ半分以上残っているが、この先ずっとこんな状態で生きていくのは地獄だ。ここでいっちょ賭けをしてみるのも悪くないな。

「やりましょう。」エヌ氏は言った。

「さあ、かかってきなさい。」悪魔は言った。


死に物狂いの時間が訪れた。なにしろ、勝てばあんなに可愛い子が自分のものになるのである。これで必死にならない男がこの世にいるだろうか。

エヌ氏にとって、素手での殴り合いは初めてだった。悪魔の拳はあまりにも重く、始めは痛くて辛くて泣きだしそうになった。だが、エヌ氏も負けてはいなかった。やり返してやる。悪魔の顔を蹴り、二、三発のストレートを喰らわすと、目の前がぽーっとしてきた。世界にいるのは、ただ目の前の悪魔と自分だけ。素晴らしい瞬間だった。彼は生まれて初めて、没入することの快さ、何かに心を奪われることの喜びを知ったのであった。

殴り、殴られ、傷つけあう。殺されるかと思えば悪魔はすれすれのところで手加減をしてきた。彼も相手を殺すことだけはしたくなかったので、首を絞めたり、目をつぶしたりはしなかった。お互いにルールを守りながら、それでも必死に彼らは闘い続けた。

エヌ氏はだんだん自分の心に生気が戻ってくるのを感じていた。ああ、生きてるって何て素晴らしいんだろう。そして貴重なんだろう。つまらない顔して落ち込んでる場合じゃない。だって、痛いって、つらいって、悲しいって、感じること自体素晴らしいことじゃないか。なんで自分はこんな簡単なことに気がつかなかったのだろう?

「ストップ!ストップ!」悪魔は言った。

「どうしてやめてしまうのです?まだ勝ち負けが決まっていないでしょう。」

「いや、もういいのです。あなたの顔を見れば分かります。あなたの勝ちです。さあ、この子と一緒に家に帰りなさい。幸せがあなたに訪れますように。」

「ありがとう。なんだかすっきりして、これからは楽しく生きていけそうです。悪魔って、良い奴だなあ。」

エヌ氏は、血だらけの手で傍らの美女の腕をとった。美女は嫌がる素振りをみせず、嬉しそうに彼についていった。



やがて例のスーツを着た男は一人になった。顔にかかった血を拭きながら、彼はこんなことを口走った。

「まったく、人助けも楽じゃないや。2000年近くこんなことやらされてきちゃあ、いつか体がボロボロになっちまう。まあでもいいか。今日のこの出来事のおかげで、またひとつ、からしだねは踏みつぶされずに済んだのだから。自分の言ったことには、自分で責任をとらないとな。」

彼の名はイエスといった。

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