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絶望した人こそ強いのだ。

ーー「もう死にたい・・・」

うまくいかないことが続くと、どうしても人生に対してネガティブになってしまう私たち。

でも、ニーチェは言います。

そのような「失望」をたくさん味わってきた人こそ、もう一度立ち上がったときは必ず強い。ぜひとも打ちひしがられて死んでしまうのではなく、その「失望」を生かして、なんどでも立ち上がって生きてほしい。

「ツァラトゥストラはこう言った」より。ニーチェの愛のあるメッセージ。ーーー

「ツァラトゥストラ」より。死の説教者について。

死の説教者たちがいる。

彼らのうちのある者は、恐るべき者たちだ。彼らの心中には猛獣がすんでいる。彼らは、快楽か、自虐か、それ以外の選択肢を知らない。快楽といっても、ひっきょう自虐でしかないが。

彼ら、この恐るべき者たちは、まだ人間にさえなっていないわけだ。こうした連中が、人生からの脱出を説教するとともに、みずからも立ち去ってくれることを、わたしは望む!

また死の説教者のあるものは、魂の結核患者たちだ。彼らは生まれるが早いが、もう死にはじめ、倦怠と諦念の教えにあこがれる。

彼らは死体でありたいのだ。わたしたちは彼らの意志を尊重しなければなるまい!この死人たちを起こさないよう、この生ける棺桶を壊さないよう、気をつけよう!

彼らは病人なり老人なり死骸なりに出会うと、すぐ言う。「これが人生の反証だ!」と。

だがそれはかれら自身に対する反証、人間存在のたんなる一面しか見ない彼らの眼に対する反証に過ぎない。

厚い憂鬱にすっぽりくるまり、死をもたらす小偶然事を、かれらは熱望している。こんなふうに彼らは待ち、歯と歯を合わせている。骸骨のように。

「生きることは、悩むことに過ぎない」ーーーと、またある者は言う。それは本音である。それなら、あなたがたの人生が終始するように、意を用いたらどうだろう!たんに悩むだけという人生が終始するように、意を用いたらどうだ!

だからあなたがたの十戒はこんなふうになる。「あなたは殺さなければならない、ーー自分自身を!あなたは盗まなければならない、自分自身をこの世からこっそりと!」

「情欲は罪である」と、死を説教するある者は言う。「わたしたちはこれを避けよう。子どもを産まないようにしよう!」

「子どもを産むのは、苦労である」と、他の者は言う、「それなのに何のために産むのか?産まれてくるのは不幸な人類だけではないか!」彼らもまた死の説教者である。

「同情を忘れるな」ーーと、ほかの者は言う。「それなのに何のために産むのか?産まれてくるのは不幸な人類だけではないか!」彼らもまた死の説教者である。

人生を激務と見て、おちつかないものと見ているあなたがたも、はなはだしく人生に倦んでいるのではないか?あなたがたも死の説教を聞くのにふさわしく、じゅうぶん熟れているのではないか?

激務や、スピードや、新奇なものや、異常なものを好むあなたがた全部ーーあなたがたは自分自身の始末に困っているのだ。あなたがたの勤勉は逃避であり、自分自身を忘れようとする意志なのだ。

あなたがたが、もっと人生を信じていたら、これほど瞬間に身を任せることはあるまい。だがあなたがたは、待つことができるだけの充実した内容を、自己の中に持ち合わせていないのだ、ーーそれで、怠惰にさえもなれない!

(ニーチェ著 氷上英廣訳 「ツァラトゥストラはこう言った」岩波文庫より引用)


絶望を経験した人間ほど強い!

「人生は嫌なことばかりだ!こんな思いをするくらいなら、なんで私は生きていかなきゃいけないのだろう!」

現代でもこのような声は後を絶ちません。

「生きることは、悩むことに過ぎない・・・」たしかにその通りかもしれません。上手くいったこと、上手くいかなかったことに対して、くよくよ思い悩んでしまう。ネットを開けば自分よりももっと上手くやっている人の存在を間近に感じられる。「ああ、どうして自分はこんなふうになれなかったんだろう・・・」なんて考え始める。

当方にもそういう側面があるので、この気持ちは大変よく分かります。すぐに自分と周りとを比較し始める。「俺にはないものをあいつは持っている」なんて考え始めたりする。

でも、だからといって決して打ちひしがれてはならない!とニーチェは言います。

ニーチェは「どうせ人類は不幸なのだから、生まれてくることじたい無駄なのではないか。」などと言う人たちを「死の説教者」と呼び、激しく攻撃しています。

厚い憂鬱にすっぽりくるまり、死をもたらす小偶然事を、かれらは熱望している。こんなふうに彼らは待ち、歯と歯を合わせている。骸骨のように。
「生きることは、悩むことに過ぎない」ーーーと、またある者は言う。それは本音である。それなら、あなたがたの人生が終始するように、意を用いたらどうだろう!たんに悩むだけという人生が終始するように、意を用いたらどうだ!

この言葉を直訳すると「くよくよと思い悩んで楽しく生きれてない者は、もはや死ねばいい」ということになります。

なかなか恐ろしいことを言いますね。でも彼は極端なツンデレだったのでしょう。実際は、打ちひしがれている人たちに前を向いてほしかっただけなのではないでしょうか。


「死にたい、人生はクソだ、虚無だ」などと言いながら、それでも文句を言いながら生きているのではなく、「どうせ生きているのなら、何をやってもいいではないか。自分の気の赴くままにいろいろやってみよう」と前を向いて生きてほしい。人生の理不尽に打ちひしがれるのは仕方がない。でも、打ちひしがれた人だからこそ、むしろいろんなことに挑戦したり闘ったりする力を備えているのではないか。どうか、どうか、あきらめずに生きてほしい。

ニーチェは打ちひしがれて絶望している人たちになんとかして戦って欲しかった。だからこそ、あえて厳しく攻撃したのです。その攻撃によって彼自身もまた血を流していることを知りつつ、それでも彼は人々に前を向いてほしかったのでしょう。

まったく優しい男です。ニーチェってやつは。


今日もお読みいただきありがとうございます。皆様の一日が素敵なものになりますように。




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