分け与えること。

ーーー臆することなく胸襟を開き、いろんな人と話をしてみる。多くの人が本心を語り、ぶつかりあい、そして二人の頭を通して新しいものが生み出される。

人間にとっての本当の幸福は、美辞麗句を弄して相手を騙すために口を使うのではなく、語り合うために、ぶつかりあうために口を使うことなのかもしれない。

ニーチェ「ツァラトゥストラ」より。最上の徳について。ーーー


「ツァラトゥストラ」より。最高に価値のあるもの。

ツァラトゥストラは、かれらに、ここからはひとりで行きたい。自分はひとりで行くことを愛するものだから、と言った。弟子たちは、そこで別れのしるしとして、一本の杖を彼に渡した。その金の握りには、一匹の蛇が太陽に巻きついていた。彼はこの贈り物をよろこび、それを地に着いた。それから彼は弟子に向かってこう言った。

ところで、どうして金は最高の価値を持つようになったのだろう?それは、金がありふれたものではなく、実用的でなく、光を放って、しかもその輝きが柔和だからだ。金は、いつも自分自身を送り与えている。

最高の徳を思わせるから、その似姿として、金は最高の価値を持つにいたった。贈り与える者の眼は、さながら金のようにかがやく。金色の映えは、月と太陽の睦みあいを示す。

最高の徳はありふれてなく、実用的でなく、光を放って、しかもその輝きが柔和である。最高の徳は、贈り与える徳なのだ。

われわれの渇望は、すすんで犠牲になり、贈り物になりたいということだ。さればこそ、あなたがたはすべての富を、心の中に積もうという渇望を持つわけだ。

飽くことなくあなたがたの心は宝や宝玉を得ようと努める。それもあなたがたの徳が、贈り与えようとする意志において、飽くことを知らないからだ。

あなたがたはあらゆる物を自分の方へ、自分のなかへと、強引に取り込む。それもそうした物が、あなたがたの泉から、あなたがたの愛の贈り物として、ふたたび流れ出すためなのだ。

そうだ、こうした贈り与える愛は、一切の価値を強奪する者とならなければならない。それは「価値」を強奪するのだ。

それとは違った、別の我欲もある。あまりにも貧しい、飢えた、いつも盗もうとする我欲である。病める者の我欲、病める我欲である。

その我欲は、盗人の目で、すべての光るものを見る。空腹にかられて、豊かに食べている者をうち眺める。それは猫のように、贈り与える者の食卓の周りをいつも忍び歩く。

そうした欲望は、そこに病気が潜むこと、目に見えぬ退化が進んでいることを語っている。この我欲の盗人めいた貪欲は、衰弱した身体の徴候である。

わが兄弟たちよ、言うがよい。わたしたちにとって劣悪、最も劣悪なことだと思われるものは、何だろう?それは退化ではないか?そして、贈り与える心が欠けているのを見ると、わたしたちはいつもそこに退化があると、推測する。

わたしたちの道は上昇する。種から超種へと昇っていく。「何もかも自分のため」という退化の心境こそ、わたしたちには恐怖である。

医者よ、あなた自身を助けなさい。そうすれば、あなたはあなたの病人たちをも助けることになる。自分自身を癒す者を、目の当たりに見ることが、病人の何よりの助けとなるようにすればいい。

(ニーチェ著 氷上英廣訳「ツァラトゥストラはこう言った」岩波文庫より引用)



心の中の財産?


それにしても、「贈り与える」とは不思議な行動です。見返りを一切求めずに、自分の中にあるものを惜しむことなく他人に与えることができるのは、ありとあらゆる生き物の中でも人間だけではないでしょうか。

わたしたちは主に何を「贈り与える」のでしょう?モノでしょうか?お金でしょうか?

「モノ」や「お金」を贈り与えることには、少なからず「投資」の狙いが込められている場合が多いのではないでしょうか。つまり、まず最初に損をすることによって後に大きな見返りを期待することが一般的な「お金贈り」のモチベーションだと考えられます。(見返りを一切求めない寄付をされている方ももちろんいらっしゃいます)

贈り与える人間には、どこかに「見返り」を期待する心が隠れている。これは当然のことであり、経済の基本です。何かと何かを交換することで、わたしたちは各々の生活を豊かにし、文明を発達させてきました。

だけど、ツァラトゥストラの言う「贈り与える」はこの市場経済的な意味とは一味違うような気がします。

彼が贈り与えるのは「自分の考えていること」です。自分が苦しんで考え、経験したこと。心の中で葛藤した結果、下された様々な結論。これを惜しむことなく、差別することなくいろんな人に分け与える。

彼を動かすものはいったい何でしょう?

それは「人間大スキ!」という強烈な感情ではないでしょうか。

「私は生きているすべての人間を愛する!愛するからこそ、ともに対話をする。私はあまりお金も財産も持っていない。その代わり、わたしの考えてきたこと、私自身の心の中に持っている財産を惜しみなく他人に分け与える。」

ニーチェやツァラトゥストラのような芸術家は、人間を愛しているからこそわざわざ自ら苦しんで様々な価値観を生み出そうとするのではないでしょうか。彼らが愛していたのが人間ではなく自分自身のみであったなら、とっくのとうにその高い知能を利用して功利的な行動に走っていたに違いありません。頭よりも先に心があまりにも豊かだったからこそ、周りからどんなに変人扱いされてもいっこうにかまわず新しいものを生み続けたに違いありません。

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最上の徳、それは惜しむことなく分け与えること。

今の時代では特に忘れ去られてしまった価値かもしれません。しかし、それでも与えても決して減ることはない心の中の財産くらい、惜しむことなく分け与えることのできる人になりたいものだ、と私は思います。

とは言ってみたものの・・・

「何が心の中の財産だ!そんなもん犬も食いやしない!同情するのならカネをくれ!」

・・・となってしまうのは致し方ありません。それは紛れもない真実だからです。結局お金がないと解決しないことばかりです。このあたりに社会の中にある強烈な悲しみを感じるのですが、いかがでしょうか。


今日もお読みいただきありがとうございます。皆様の一日が素敵なものになりますように。



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