セルフ・サービスの感動
その一瞬だけ妙に心に残っている情景。心の砂漠の中で、石ころのように無造作に置き去りにされている。そんな情景をすべて洗いざらい切り取って一つの映画にするというサービスを始めた会社がある。CEOはまだ若き26歳の辣腕企業家であるK氏だった。
K氏はW大学の神経生理学教室と契約をし、人間の脳に異常なほど強い印象を残している画像記憶を掘り起こす技術をビジネスに利用する許可を得たのだった。
それは大当たりした。彼がビジネスを始めたその時代は、誰もが心の拠り所を失いインターネットの海で遭難信号を出しているような時代だった。できた映画は、「自分だけのもの」であり、自分の中に残っている強烈な印象を残す情景だけで構成されている。それを見た者が強い感動に襲われるのは当然だった。クライアントは自らのスマホにアプリをダウンロードし、クレジット決済を済ませた後、郵送されてきたヘルメットをかぶって一晩眠ればよい。そのヘルメットが彼の脳の中に眠る「画像記憶」をすべて掘り起こし、その中でもより神経細胞の興奮が激しい記憶を抽出する。その画像は本社の機密編集室へ送られ、守秘義務を遵守したクリエイターが責任をもって「彼だけの映画」を作る。1週間足らずで彼のスマホには、彼の、彼による、彼だけの美しい映画が配信されている。
多くの人がこのサービスを利用した。そして、出来上がった映画を大切に保存し、毎日毎日飽きるほど繰り返し視聴するのであった。
株価は鰻登りだった。K氏は秘書を2人雇い、支店の数を増やした。彼の運営する企業は日本を代表するIT企業の一つへと大成長を遂げた。
だが、彼のサービスを利用した人の中で、精神の変調をきたす人が現れ始めた。
それは突然だった。しかも理由はわからなかった。しかし症状は全員同じだった。毎日毎日繰り返し映画を見ているうちに、涙もろくなり、周囲の視線が気になるようになり、太陽の光線がまぶしくうっとうしく感じるようになり、自分が世界にいじめられているという妄想に陥るようになり、退廃的な無気力状態に陥ってしまう。それは覚せい剤による精神症状に似ていた。
企業の社会的責任、なんて言葉が急に飛び交い始めた。メディアでもSNSでも、今まで彼のサービスを称賛していた人が急に手のひらを返したように「危険極まりないマッド・サイエンティスト」とか「パンドラのハコを開けた愚かな金の亡者」とかありとあらゆる言葉で彼を罵倒するようになった。もっと悪いことに、世間の風当たりが強くなるにつれ、彼の映画により妙な影響を受ける人も増えていった。
ついに彼は逮捕された。多くの人に感動を与えたヒーローは、いまや愚かな金の亡者であり、歴史上稀に見る悪党であった。金儲けのために罪なき人の心を食い物にした悪魔、とまで言われた。彼は今まで稼いだ金のすべてを払い、3日間の保釈を得た。
保釈期間中、彼は見張りの人間が居眠りしているところを見計らって、本当は死ぬ間際に見ようと思っていた、彼自身の「映画」を視聴した。まず初めに現れたのは彼の生家だった。母の歯。真っ白な、整った歯。ふくらんだ下唇。父が空色のジョウロを使って、ペチュニアに水を遣っている。ああ、そういえば、この時、自分は発作的に母に抱きしめられたくなったのだった。二度と味わえない、母の乳房・・・彼の青年時代の努力は、すべて母に褒められたいがためだった、といっても過言ではなかった。
次に浮かんできたのは橋だった。大きな河川にかかる橋を、下から見上げている。欄干には女の子が身を乗り出し、こちらを向いてニッコリ笑っている。欄干の手すりに圧迫されて、ちょうどその高さにある成熟した乳房のふくらみが際立って見えた。自分はあの時、彼女を本当に美しいと思った。高校時代にできた、初めての彼女である。
その後もいろんな情景が続いた。大学時代、親友とおっかなびっくりで入ったハプニングバーにいた、耳にピアスを10個ぐらいつけた目の澄んだギャル風の女の子、初めて女性を抱いたときに、間近で見た彼女の耳。電車の窓から見えた瀬戸大橋の勇猛な影。すべてが美しく、すべてが脆かった。涙がとめどなく溢れてきた。なんだったのだろう。そうだ、自分は、美しいものを見たかった。生きているうちに、美しいものにたくさん触れて、心が壊れるくらい震えるような体験をたくさんしたかったんだ。そしてそれをみんなと共有したかった。いろんな人に安っぽいものじゃない、本当の感動を味わってほしかった。でも不幸なことに、人間の心はあまりにも脆弱だったのだ。魂が震える時、その魂は寿命を縮める。俺は、そのことに、気がつかなかった・・・
翌朝、彼は既にこと切れていた。傍らには睡眠薬の瓶が転がっていた。