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【短編小説】失ったもの、手に入れたもの。


星のきれいな夜でした。本来、日本海側の冬はこれでもかというほど天気が悪いものです。毎年大量の雪が降るエム氏の住処にとっては、たまらなくなるほど貴重な、うれしい晴れ間でございました。人々はみな、暖かい家の中でゆっくり過ごしながら明日の雪かきの心配をしなくてすむことを喜んでおりました。

冬の晴れた夜は寒いものでして。この日は氷点下5度近くまで下がっていました。アスファルトに蛭のようにくっついている除雪車の取り損ねが、街灯の光を反射して、人の心を寒からしめる輝きをエム氏の瞳孔に届けてまいりました。彼はそれを見まいとして、一瞬だけ目を瞑りました。

彼はもう30の坂を越している男でした。そして、えらくぎこちない様子でとぼとぼと歩いているのでした。左足を引きずっているように見えます。

こんな冬の夜遅くに、一人で足を引きずりながら歩いている男には、必ず何かの物語があるに違いありません。今日は少し、それを覗いてみましょう。

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エム氏は営業職についているサラリーマンです。もちろん今も、毎日一生懸命仕事をしている、現役世代バリバリの、働き盛りの30代でございます。

ところが彼には一つだけ悩みがありました。


お酒に強くなれない。


営業職というものは、とにかく印象と口まわしが上手くなければ結果を出すことができません。大勢の人たちにとって人と人とが仲良くなるツールとして、お酒は最もよく使われているものです。一緒にお酒を飲む、これによって、普段ならまず人のことを疑いにかかるような警戒心ゴリゴリのビジネスマンたちもあっという間に打ち解け、数十年来の竹馬の友の如く肩を抱き合って仲良くなる。

エム氏はある事件が起こった後から、その光景を横目で見ながらウーロン茶などを飲んでいるわけでして。おまけに彼はそこまで口達者なわけではありませんでした。楽しく酔うことのできるライバルたちにはかなうはずもなく、いわゆる「窓際族」の一人でした。ほかの連中は鱈腹ビールなんか詰め込んだ後、「地元の誇りだ」とか言って日本酒までラッパ飲みを始めるのですから。エム氏はいつも場の雰囲気に圧倒され、追いていかれるのが関の山。

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実は今日もこの寒空の下、接待の飲み会が開かれていたわけです。彼はいつも通りなんの実力も発揮できずに、自分よりも年の若い上司に「まあ、エムさんは仕方ないですよね」と言われてしまったことがなおのこと悔しかったみたいです。

「若い頃にたくさん飲めない奴は、大人になっても飲めないままである。肝臓は衰えていくばかりなのだから。」上司のこんな言葉が、舌の上にころがる苦い粉末のように彼の心の粘膜に沁みわたりました。

だが、彼も若い頃は相当に頑張ったものでした。飲めないなりに一生懸命飲むと、年上の人には可愛がられるものです。彼は「まだ若い」という特権を利用して、飲めもしない日本酒をたくさん飲んで、べろべろに潰れて帰る、という生活を数年前までは続けていました。

ある夜のことでした。彼はいつも通りの頭痛と吐き気をなんとか抑え込みながら、ふらふらと帰路についておりました。

突然体がふわっと浮いた感じがしました。

あれ?

エム氏が不思議がると同時に、左足に鈍い痛みが走りました。同時に、したたかに頭を打ち付けてしまいました。

いったいどうしたんだろう?

慣れないアルコールで朦朧とした脳では何をも把握することができません。ただ、左足に触れてみると手に赤い血が。そして、街灯の遠慮がちな光を頼りに、彼の膝のあたりから折れた骨がにゅっと突き出しているのを見た時、生まれて初めて彼はぞっとしました。

「助けてくれ!」

叫んでも誰も来てくれやしません。地方の真夜中なんて、そんなものです。

彼は用水路に落っこちたのでした。稲作の盛んな彼の地域では、いたるところに深めの用水路が張り巡らされておりました。

エム氏は携帯電話で救急車を呼びました。そこまでの的確な判断ができるほど彼の頭がやられていなかったことは、この上ない幸運でした。

救急隊は彼を引っ張り上げるのに苦労しました。3人がかりでは無理で、近くを走っていたパトカーが助けに来たくらいでした。

傷口から汚い用水路の水が入り込んだため、彼は2週間ほど高熱にうなされる羽目になりました。そして、左足は治ったものの後遺症を残しました。神経がやられ、思うように動かせなくなったのです。医師の口から「もう一生元通りにならない」と言われた時のエム氏の驚きようといったら!彼の大好きなテニスも、一人で台所になって料理することさえできなくなるのではないか。彼は自殺を考えるほどに追い込まれてしまいました。

だけど、とりあえずは生きてみるものです。彼の前には理学療法士や作業療法士、義肢装具士など、たくさんの助っ人が現れ、いろんなサポートをしてくれました。その国の社会福祉はとてもしっかりしており、エム氏はたくさんの公的な援助を受けてなんとか社会復帰をすることができました。

だけど、それ以来、お酒はきっぱりとやめてしまいました。

彼は今も、自由にならない左足を抱えつつ、接待の場に行きます。そしてウーロン茶やコーラを飲みながら、接待相手が楽しそうに杯を干すのをこれまたニコニコと見ています。そして、なぜ君は呑まないのかと聞かれると、左足を失った話をします。すると、途端に彼は許されるのでした。「そりゃあ大変だったね。」なんて言われて。酔っ払いなんて、単純で優しいものです。エム氏はあれだけ嫌いだったお酒も接待も、なんだか急に愛おしく思えてくるのでした。

今日もそんな飲み会を終えて、彼はひとりでとぼとぼと帰っているところでした。すっきりした頭で、彼はいったい何を考えているのでしょう?最後に彼の頭の中を覗いて、この物語の幕を閉じることにしましょう。

「失ったものがあると、意外と自分の中にある好いものに気づけるのかもしれない」

なんて考えながら、彼は冬の冷たい空気をかき分けて歩いていくのでした。




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