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白鳥おじさんのショウ・タイム

「三代目白鳥おじさん」を初めて見た時から、何年経っただろうか。

冬の冷たい湖。そこらじゅうに穴がボコボコ開いている古い桟橋。下手をすれば踏み外して、彼の心臓の息の根を止めるのに十分なほど冷たい水の上に落下してもおかしくないのだが、我らが「白鳥おじさん」はそんな些事には一切目もくれず、スキップでもするように軽々と桟橋を渡っていくのだ!ギシギシギシ、という桟橋の悲鳴。笑顔のおじさん。雪灯りに浮かび上がる、白鳥の黄色いくちばし。

「白鳥おじさん」の仕事は、毎日午前9時、11時、午後3時(これは必ず守られる)に、冬の湖の上で生活している白鳥たちへの差し入れとして、湖畔にて開業しているパン屋で余ったパン屑やらニンジンの皮やらを大盤振る舞いする、というものであった。いったい誰がいつ、どのような目的でこのような仕事を始めたのかは全く分からない。だが、「三代目白鳥おじさん」の存在は公式であり、その湖を管理下に置く自治体のホームページにきちんと紹介されている。

白鳥おじさんは住民投票によって選ばれるのだろうか?だが、彼の職業はもはや3代も続く老舗の看板であり、彼の存在は町の住民にすこぶる愛されている。日曜の3時には湖畔に人だかりができて、音の割れたスピーカーから「G線上のアリア」の悲しい旋律が流れ始めると同時に、凱旋が始まるのである!もはや緑色に変色した彼の商売道具、コメリで買った青いポリバケツに、パン屑やらジャガイモの皮やらを大量に詰め込み、うきうきした足取りで例の桟橋の上をギシギシ渡ると、食べ物の匂いを敏感にかぎつけた白鳥どもや鴨どもがキュイキュイガアガアたむろっている湖面の一分画めがけて、そのバケツの中身を一気にぶちまける。その後が見もので、自然の中で血で血を洗うような生活をしている野生の鳥類どもは、これ当然とばかりに己の嘴で相手を刺し殺さんばかりのすさまじい気迫を見せつつ湖面にばらまかれたパン屑やらジャガイモやらを一粒でも多く喉の奥に詰め込もうと躍起になる。その光景はあまりにも生々しく、こんにち地上波で放送されているような血の流れるアニメなんかよりもよっぽど青少年に対し規制すべき対象であることは確実なのだが、「白鳥おじさん」を敬愛する住民にはなぜか家族連れが多く、このような凄惨な光景を親子でニコニコしながら見ているというわけで、まったくもってこの世は不思議、小説よりも奇なり、なんて思って眺めていたら、戦争状態にある桟橋近くとはだいぶ離れた場所に、湖面には似つかわしくない白い影が揺らめいているのを見つけた。

白鳥おじさんも見飽きたので、好奇心を抑えきれずにその影に向かってズボズボ新雪を踏み抜きつつ歩いてみる。すると、やはり予想通り、そこには一匹の白鳥がいた。

しかし、どうしたというのだろう?腹は減ってないのか?なぜ、他の白鳥どもと同じように、その白く華奢な胸を張って「白鳥おじさん」の奢りにあずかろうとしない?不思議に思った私は、彼にもう少し近づいてみた。するとその理由が分かった。彼は病気だった。

本来ならば氷柱のように美しい白い首に、青黒い腫瘍のようなものが巣食っている。そのせいなのかどうかは分からないが、心なしか彼は呼吸困難状態にあるように見える。水上に横たわりつつ、口を開け細長い舌を突き出し、懸命に空気を吸っている。ヒュウ、ヒュウという呻吟の音がいまにも聞こえてきそうである。その眼はどこも見ていないように思えた。ただひたすら、死を待つ、一匹の、美しい命が、かつて支配したかのように我が物顔で飛びまわっていた天を見上げつつ、最期の時を待っているその姿を見てしまった私は、急いで取って返し、湖畔のパン屋にて一袋100円で売っている「白鳥おじさん肝煎りのパン屑」を手に入れると、袋の中身を腫瘍に苦しむ彼の周りにすべてぶちまけて帰ることにした。

帰り際、一度だけ彼の様子を見ようと振り返ってみると、白い影の周りにはカラスが大量に訪れ、先ほど私が残してきたものをすべてその真っ黒な腹の中に納めているところが見えた。カアカア鳴いていた。ただそれだけの話。



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