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ショートショート「雨」

雨が降っていた。私はバス停にいた。

バスが来たようだ。

激しい雨で、足がびしょ濡れだった。穴だらけの靴に、簡単には乾かないデニム生地のズボン。条件はそろっていた。大人になればなるほど不快に思えてくる、びしょ濡れになった服がまとわりついてくるあの感覚を、どうやら家に帰るまでずっと引きずっていなければならないらしい。

ああ。

つり革を捕まえて外を眺める。雨はますます強くバスの天井を叩いた。

「発車します。ご注意ください。」

バスは走り出した。目の前のガラスに、雨に濡れて鼠色になった建物が右から左へ流されてゆく。

赤信号で止まった。

ふいに映り込んできた黄色い帽子の若い命があった。小学生だろうか。

学校からの帰り道なのだろう。いわゆる「半袖短パン小僧」っぽい雰囲気を醸し出した元気いっぱいの男の子とみた。特にすることもないので、僕はバスの中からひたすらその子を眺めていた。

彼は傘をさしていなかった。すでにTシャツはずぶぬれで、元々の色が何なのかさえよく分からなくなっていた。彼はしかめ面をしていた。水を浴びさせられてばかりでは癪に障るらしかった。

周りの大人たちはみな素知らぬ顔をしながら、手に持っている即席の屋根の下でぬくぬくとスマホなんかいじりながら下を向いて歩いている。

彼は孤独だった。

たった一人で、大自然のささやかな恵みと復讐を一身に受けている。



すると、彼は驚くべき対抗手段に出たのである。

なんと、空に向かって口をあんぐり開け出したのである。


私は思わず彼をじっと見つめた。彼はそのまま歩き続けた。もはや彼は前を見てもいなかった。

大勢の人たちが下を向いて歩いている中、彼だけは天を仰いで口をあんぐりと開け、何かを訴えるかのようにパクパクと顎を動かしつつ、その赤く美しい舌で唇の周りを舐めまわしながら、空から降ってきた雫を少しでも飲み込んでやろうという意気込みを見せていた。

やがて信号は青になった。バスはゆっくりと走り出し、窓ガラスのパノラマからあの少年の姿は消えてしまった。

相変わらず似たような景色を見せてくる窓をぼーっと眺めながら、私はあの少年のことについて考えていた。そして、一瞬だけ垣間見たこの世の不可思議についても考えざるをえなかった。どうしてもわからないのだ。

なぜ、彼が口を開けた瞬間、まるで彼を避けるようにして雨が降りやんだのだろう?

ぴたり、とやんだのである。今となっては太陽が出てきている。橙色の夕日がドアミラーに反射して私の眼を刺してきているくらい、空は晴れ渡っている。

どうも不思議である。ただ、「そういうこともある」というポン酢みたいなつまらない万能調味料でこの出来事を味わってしまうのはもったいないように思う。

私はこう考えてみる。

決心を固め、腕をまくり、心の中の勇気を振り絞り、打ちひしがれていた様々な理不尽に対抗してやろう、なんとかして生きぬいてやろうと思ったその時に、問題は解決してしまうことがある。せっかく一肌脱ごうと思って立ち上がったその瞬間に、すべてはうまくいき、まるで初めからなんの問題もなかったかのように己が身に陽光の降りかかる、そんな出来事を表わしているのではないか。

かの少年も、こんな目にあっては、開いた口が塞がらなかっただろう。







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