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どの教室にも置いてあった孤独のお話

「どうせ誰も俺のことなんか興味ねえよ。」

彼は、いつもそう言ってコーラ飴を鞄の中に入れた。

放課後のアスファルトは昼間の陽光を吸い取ったためか、微妙な温かさをもって僕らの足を支えていた。これは夢だろうか?とにかく、ここは私の故郷だ。桜の綺麗なことで有名な道を二人で歩いていく。傍にいるこいつは、よく一緒に悪さをしたHという青年である。

なつかしいな、という感情は湧いてこなかった。むしろ、彼が隣にいるのは当たり前だという気がしていた。

頭が痒くなった。

うなじの辺りの、毛が短くなっているところをポリポリやる。自分はスポーツ刈りでキメてきている。そういや、俺は優等生だった。でも、どこかで学校に反発を感じていた。表面的には先生と仲良くしていたものの、変なところで反抗した。わざと授業に3分遅れてきたり、掃除で集めたホコリを駐車場に向かってまき散らしたり。なんともケチな反骨精神を持っていたものである。私はびくびくしていたのだ。そして憧れていた。となりでコーラ飴をガリガリと噛む、Hのような不良になりたかった。でも、良い高校、良い大学に行きたかった。矛盾する二つの感情が俺を苦しめた。なんてことはない。普通の臆病な中学生だった。

Hはいつも独りだった。もちろん、彼は部活もやっていたし、いじめられていたわけではなかった。それでも、男同士集まってくだらない下ネタで盛り上がっているときでも、彼はどこかほかのところにいた。必要以上に他人に干渉しないよう、彼はいつも気をつけていた。剥き出しの感情に触れるのを恐れていた。

彼は独りでも万引きをやった。俺は彼がいないと万引きなんてできなかった。彼はそれでも、俺のことを馬鹿にしなかった。「やりやがったな、このアホめ」嬉しそうにそう言って、コーラ飴だけ口の中に入れて、残りの戦利品をドブ川の中に放り込むのだった。

これはいつの思い出だろう?

桜並木の下を、盗んだコーラ飴をガリガリ齧りながら二人一緒に歩いていく。Hは黙っていた。俺も黙っていた。

「今日も大成功。」

Hはそう言って、ニッコリ笑った。

俺はなぜか何も言う気になれなかった。その代わり、ひたすらな孤独感が胸を襲ってきた。社会のルールを破ると、いつも襲ってくるこのどうしようもない寂しさ。あまりにも堂々と歩いている中年の大人たちが、自分とは全く異質な人間のように思えてくる。こんな感情、思春期特有の自意識過剰と言ってしまえばそれまでのものだった。ただ、それには何かがあった。何かが。強いて言えば、大人への階段、といったところだろうか。

「犯罪を犯しといて、何が大人への階段だ」

桜に向かって唾を吐きかける。

どうした、とHが聞いてきた。別に、と俺は答えた。

万引きをやりながら、俺たちはきっと気づいてほしかったんだ。俺たちは叱られたかった。こっぴどくやられたい。大人たちに打ってほしかった。そっちのほうが、まだ、さびしくないだろう。ただ、駄菓子屋のおばさんはもう諦めてるし、自分から罪を告白するのは俺のプライドが許さなかった。きっと誰かが俺たちのこと悪事を見抜いていて、先生か警察に垂れ込むだろう。このような予想は、一種の恐怖ではあったが、しかし甘い期待だったのである。自分たちがものすごく世の中に意識されているという、甘い期待。

間違っている。何もかも間違っている。そんなことはうすうす気づいていた。

ただ、間違えたかった。問題を解かないで放っておくよりは、間違えたほうがまだマシだった。俺もHも、根底にあるものはきっと同じだ・・・と、俺は思いたかった。あるいは、Hに見下されていたのかもしれない。それでもいい。

正解は・・きっとないだろう。

あるとすれば、それは何も考えない、という事に尽きる。何も考えずにルールを守り、周りの大人たちの言うことを聞いてひたすらに時間をつぶしていく。きっとそれが正解なんだろうな、という気はしていた。だが、それでも俺たちはあえて間違えるのだ。知るもんか。学校の先生は俺たちのことで頭を悩ませているふりをしているだけだ。彼らにしてみれば、俺たちは川を流れる藻屑と同じで、一瞬だけ近くにいたと思えばあっという間にいなくなってしまうようなどうでもいい存在に違いない。興味などない。誰も自分のことに興味などないのだ。この寂しさを骨の髄まで感じたものだけが、たどり着ける境地があるような気がしていたし、きっとそれはあるのだろう。それがHだ。誰も傷つけず、悪意というものを持っていない。彼のその美しい態度には、きっと万引きが必要だったのだ。万引きを通して、彼は孤独を味わっていた。コーラ飴を舐めるとき、彼はやさしさを知ったんだろう。それは押しつけがましい、善人じみたやさしさではない。遠くから眺めている。見守っている。そして、誰にも知られないように手助けをする、そういう種類の、苛烈で芯のあるやさしさを。

目の前のHはいなくなっていた。きっとこれは夢だったのだろう。朝日が顔に降りかかる痛みを感じる。桜並木が崩れてゆく。ただ、あの頃に味わった孤独は消えなかった。それはずっと、死ぬまで俺の心に残り続けるのだ。

ふいに笑みがこぼれてきた。見下ろすと手があった。みずみずしさを失った、しわくちゃの手が。この手では、もうコーラ飴をつかむことなどできやしまい。

駄菓子屋のおばさん、ごめんなさい。



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