「科学」でさえ、やはり疑ってみる必要がある
なぜなんだろう?
なぜ、ここまで生きることは難しいのだろう?
人間は昔からこんなことばかり考えてきたに違いありません。
生きていれば、あらゆることがおこりえます。
理不尽に何かを奪われることもあれば、理不尽に何かに救われることもあるでしょう。何かを手に入れたいとあくせく頑張ってもなかなか手に入らず苦しんだり、苦労して手に入れたものが案外自分の身には重すぎてまた苦しんだり。
「人間万事塞翁が馬」とはよく言ったものです。幸福が次の瞬間には不幸の原因になったり、一見、禍いだと思えることが案外いい結果を生み出したり。
ルールのない競技場で、ひたすら周りの人間と関わり、失望し、ある時には喜びを共にしたり共感したりして、制限時間が来るまでなんとか生き抜く。
「生きる」って、そんな感じでしょうか。
何がキツいかって、根本的に「ルール」がないからキツいんです。
頭のいい人たちがいくら集まって考えても、「こうすりゃ何が何でもなんとかなります!」みたいな方法が一切無いからキツいのです。
何でもいいから答えがほしい。「こうすれば何とかなる」というような方法にすがって生きていきたい。
その結果、生み出されたものが「宗教」です。
「人を愛せ。謙虚に生きよ。産めよ殖やせよ。神を信じろ。困っている人を助けよ。さすれば汝は神の国に入らん。」これはキリスト教の教えです。
「南無阿弥陀仏って唱えてりゃ救われるよ!」これは大乗仏教の教えです。
これらの教義に共通する思想は、「来世に期待しろ!」ということです。
現世はどうにもならないが、来世は今の私たちの行動によって変えることができる。できるだけ善良に、できるだけ謙虚に、ルールを破らずに生きること。そうすれば、死後に「天国」に入ることができる。そこではもう思い煩うことは何もない。永久に幸福なまま存在することができる。
僕はときどき思います。
これを「信じ切る」ことができたなら、どれだけ楽になれただろう、と。
だって、今の世の中だってたくさんの人が「教義」に矛盾しないように生きているじゃないですか。月から金まで(場合によっては土日まで)一生懸命働いて、家族のためにいろいろ自分の時間を割いて、ルールや常識から逸脱しないように自分の精神を調節して、疲れをひた隠しにしながら必死に生きている。
そんな人々が、「俺はこれだけ一生懸命やってるんだから、神様は見てくださるだろうて。」と信じることができたなら、どれだけ楽になれることだろう。
しかし、どうもそうはいかないようです。
今では、僕も含めてほとんどの人が「来世」なんてものを信じていません。
死んだあとはただひたすら無が待っているばかりです。「天国」や「地獄」はありません。だって、科学的じゃないんだもん。
そうすると、人生の意味が急激に変わってきます。
「椅子取りゲーム」
「勝ち逃げゲーム」
そんな感じになってきます。
限られた時間の中でできるだけいい思いをたくさんして死ぬのが一番悧巧な生き方だ!となるのは当然です。どう生きようがみんな同じように死ぬのですから。
できるだけ賢く、できるだけ苦労せずに、できるだけ努力せずに生きたい。
冷徹なロジックに支配された価値観は、薄いけれども剥がしにくい厄介なニヒリズムを生み出していきます。
論理や数字に過剰に支配された社会は、非常に冷酷な価値観を生み出していきます。
「全ては自己責任。起こったことには全て論理的な説明がつくため、全てはあなたの所為だ。」
「どうせ死後の世界などない。誰かのために何かをやったって、良いことなんて何一つない。」
こうなると、救われないのはいわゆる「負け組」です。
「どうせ何もない。頑張っても、誰かのために何かをやったって、良いことなんて何一つない。それでも、俺は苦労しなきゃいけない。生きるために。だったらなんで生きてなきゃいけないんだろう?」
現代の価値観に支配されてしまうと、このように考えが起こってくるのは当然です。「どうせ何もない」のですから、苦しんで生きること自体、非合理的であるという結論に至るのは、論理的には正しい。
人間が複数生きている限り、必ずそこには「差」が生まれます。勝つ人がいれば、かならず負ける人がいます。どの時代にも必然的に生じる不遇の人たちを救うために生まれた「非科学的」な思想は、「科学」や「数字」に対する過剰な崇拝によってつぶされつつあります。
勝つしかない。喜ぶためには勝つしかない。
「論理的な正しさ」に心を支配され過ぎると、行きつくところは多分ここでしょう。
窮屈なものです。
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