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今日はなが~い自分語りを。


毎日文学を深く読み込み、解説の文章を書いていると臍の奥が重くなってくるような、そんな感覚に襲われることがあります。

とうぜん、作家たちが血を滴らせて書いたものを読み込み、解釈し、それを文章に起こすことなど簡単にできる作業であってはなりません。芸術に深く入り込もうとする人間が心の中の何かをすり減らすのは仕方がないです。というか、もはや当たり前でさえあるのかもしれません。

少なくとも(もうこの世にはいない人ばかりなのですが...)原作の作家たちが僕の文章を読んだときに、「ほう、こいつはそんなふうに書くのか」と感心させてやりたい。書いた本人でさえ気づかなかったような美しさや、その小説のストーリーの持つ何とも言えない感動を言葉にして表してやりたい。

そんな思いで3か月間続けてまいりました。

でも今日は、ちょっと休憩と言うことで・・・

僕自身のことを語らせていただきます。



小学生のころから本は大好きでした。一番好きだったのは・・・やっぱりあの「かいけつゾロリ」でした。

いやあもう、なんというか作者の原ゆたかさんはマジで天才ですね。今でも銭湯に行くとみんなが寝っ転がってる大広間に「かいけつゾロリ」の本が置いてあったりして、それをちょいと読んでみたりするのですが、やっぱりメチャクチャ面白いんです、この本。

とくに印象に残っているのは、「レオナルド・ディカブリオ」という熊がオナラで沈没した船を持ち上げ、見事に大勢の人の命を救う、という場面です。どのシリーズだったかな?忘れてしまった・・・

そんな感じで、わりと想像の世界の中に生きていました。自由帳はいつも真っ黒で、クソ汚い絵で四コマ漫画を描いていたりしました。週末は一人で自転車に乗って「一人電車ごっこ」をやっていました。

勉強もたくさんしました。

うちはゲーム禁止だったので、ゲームを一切しないで育ちました。

その代わりに、相当いろんなものを読み漁ったりしていました。「かいけつゾロリ」のあとに好きだったのは「ズッコケ三人組」、その次は青い鳥文庫の「名探偵夢水清志郎シリーズ」、「新耳袋」、「少年探偵団シリーズ(江戸川乱歩)」、村上春樹先生の「羊をめぐる冒険」も大好きでした。漫画なら「火の鳥」、「はだしのゲン」、「どろろ」、「ドラえもん」など読みまくりました。近所にみすぼらしい図書館が一個あるだけの田舎町だったので、読める本の選択肢があまりないのがかえって幸運でした。あるものはとりあえず手に取っていくスタイルでした。

はじめて純文学に手を出したのは高校の時です。ちょうど教科書に載っていた夏目漱石の「こころ」を読みました。ただ、当時はぜんぜんわかりませんでした。漱石の小説全部をつらぬく「考えすぎる」という主題が身に沁みるほど考えて生きていませんでした。

当時は、完全に試験勉強の中に生きていました。「正解」を求めて勉強をする日々の中で、世の中すべてのものには必ず「正解」があり、テレビで実名報道されるような道を誤った方々は、すべてその「正解」を選べなかったからそのような末路に陥ってしまったんだな、なんて思っていました。

自分は何一つ間違えていない。完璧である、と。落ち着いて「正解」を選べば人間は幸せになれないはずがない、と。すべては自己責任である、と。

なんと傲慢で呆けた若造だったことでしょう。

そして、あらゆる傲慢な若造の行きつく先に、僕も無事到着しました。

10代後半にいろいろ経験しました。

失恋もあり、勉強面での挫折もあり、まあ、あといろいろと。

正直言うと、ぜんぜん大したことのないものばかりなのですが、馬鹿な私はずいぶん打ちのめされたものです。

こんな感じで、あらゆることが上手くいかない時期がありました。

そんな時、もう一回本を開いてみよう、という気になりました。

その時に出会ったのが、19世紀のドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェでした。

こいつがもう、凄いのなんのって。初めて彼の本を読んだときの衝撃を一生忘れません。

ぜんっっぜん、ワカラナイ。

何言ってるんだか、さっぱりワカラナイ。

自分の読書量みたいなものに相当な自信を持っていた私は、ここでも挫折しかけました。

ただ、ニーチェの著作「善悪の彼岸」の中で、こんなことが描いてあったんです。

理解されると言うことはむずかしい。違った考えや生き方をしている純真な人間、すなわち、「亀のような」、あるいは精々で「蛙の歩き方」をしている人間の場合は特にそうである。ーー私は自ら「理解されにくい」ようにあらゆる手を尽くすのだ!ーーそして、いくらか行き届いた解釈をしてくれる行為に対しては、もとより心から感謝すべきである。しかし「良い友達」ともなれば、いつも余りに心置きなく、しかも全く友達として心置きなくつき合う権利を持っていると信じているので、このような連中にはあらかじめ誤解のための遊技場や運動場を認めておくのがよろしい。そうすればなお笑うことができよう。ーーあるいは、彼ら、この良い友達をまったく追い払うこともできよう。そしてまた笑うこともだ!!(ニーチェ著 木場深定訳「善悪の彼岸」岩波文庫より引用)

この文章の意味も正直よく分かりませんでしたが、それでも、何となく気づいたことがありした。


本当に意味があるものって、分かりにくくできているんだな、と。

本気で書かれたものは、読む人をしっかり選ぶんだな、と。

「文学」を読めるようになりたい。いろんな面白い連中の考えていることを自分の中に取り込みたい。

そんなわけで、20歳を超えてから再び、自分のなかに読書ブームが到来いたしました。

小中高の時には読まなかったいろんな哲学者や純文学に手を出しました。ゴーゴリ、ドストエフスキー、サルトル、カミュ、ゲーテなど。日本人だと漱石や芥川、三島由紀夫など。

こうしていろんなものを読んだり、書いたりしていると、心の中の何かをすり減らしていきます。しかし、そのすり減らされた心の断片から、何か綺麗な結晶ができてくるような気がするのです。

これだ、これが尊いのだ!

・・・と言いたいところですが、実生活で生きる上では何も役に立ちません。

それは何かやさしさ、かなしさ、みたいなものです。想像力?思いやり?謙虚さ?なんていえばいいのか分からない。それでも、何かは必ず心の中に育ってきます。それは、得をするものではないですが、悪いものでは決してありません。

そろそろ長くなってきましたね。この辺で終わりにしたいと思います。

これからもたくさんの文学を皆さんと一緒に楽しんでいけたらな、と願っています。


今日もお読みいただきありがとうございます。皆様の一日が素敵なものになりますように。







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