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季節外れの思い出話を。

窓を開けると、子ども2人を抱えたおっかちゃんがちらり、と見えた。女の子のほっぺに桜の葉っぱが一つおちた。彼女は自分のもとに訪れた葉っぱを、弟の口に入れ始めた。プレゼントのつもりらしい。なんとも温かな夕べの光景である。

こらッ!何をしてるの!やめなさい!

愛情のこもった怒声が一つ、聞こえてくる。

いつもなら近くの女子大の学生が美しく黄色い声を上げながら通ってゆく時刻に、今日は親子連れが一組、通りかかっていった。見上げると空が遠く透き通って見えた。これは秋の空だ。もう秋が来たのか?この地域にしては夏が短い。いつもなら九月の終盤までじりじりとした残暑が続き、たった数週間の秋を経て突然みぞれ混じりの吹雪が始まる、住みにくくて仕方がないこの地域にしては。

お盆も過ぎ去り、季節は秋である。もっとも、寒く厳しく、やたらに長い冬はすぐそこまで来ている。たった一晩で膝の上まで積もった雪を革靴で蹴散らしながら、いらただしげに「だあっ!もうっ!」とか言いながら通勤の路を急ぐ人々の顔がたくさん拝める、じめじめした寒いあの陰気な季節がもう少しでやってくる。

そうなのである。我が地域では、雪は「白い悪魔」なんて呼ばれている。もっとも、電車を足止めし、屋根から落ちて来ては何の罪もない人々を殺し、受験生が奮起するような大切な日に限って猛威を振るう自然の脅威を「悪魔」と呼ばずして何といおう。

昨年も災害レベルの大雪だった。電車は止まり、幹線道路は大渋滞、幼稚園に向かう子供は大泣き。人間が作った都市が、大自然の気まぐれに対していかに脆弱かを思い出させてくれる悪魔は、どうしてこの地域ばかり虐め続けるのだろう。白い悪魔は飽きることなく大地にその根を下ろし続ける。一晩明ければ銀世界、なんて詩的なことを言っている場合ではない。一晩明ければ戦争開始、である。

今年1月の出来事である。

ある朝、ものの数時間で車が埋もった。いざ鎌倉と意気揚々と出勤しようとしてドアを開ければ、リアルなかまくらのお出ましである。車が雪に埋まると、何とも言えない、丸く可愛らしいフォルムに縁どられたかまくらが出現する。もちろん、そこから我が愛車を掘り出し、雪だらけのガタガタの幹線道路へと繰り出すのには相当の時間がかかる。穴を掘ってろうそくでもつけて楽しんでいる場合ではない。ステンレスのスコップを片手に、全力で雪かきをしなければならぬ。一日はまずそこから始まる。

愛車を傷つけぬよう気をつけながら、ただひたすら掘っては飛ばし、掘っては飛ばしを繰り返す。一息ついて周りを見れば、いつもは平和にコーヒーでも飲みながらアナウンサーの顔を拝んでいる人々が一斉に街に繰り出し、朝っぱらから憎々しき悪魔に隠されてしまった愛車を助け出しに行く。

「大変ですねえ。」いつもは目も合わせないはずのお隣のおじさんが話しかけてきた。

「いや、もうほんとに。一晩でこれなんてもう、やってらんないすよ。」

「どうして毎年毎年こうなんですかねえ。」

とか何とか云いながら、おじさんは我が愛車の前にしがみついていた悪魔の塊を全力で持ち去ろうとしてくれた。

「あっ、すいません!」当方、あわてて声をかける。

「いんだよ。ご苦労さん。あんた、どこ出身?」

「○○市です。」

「わあ。あそこならこんな雪大したことないんじゃないの。」

「いえ、当時は車も持ってなかったので・・・」

「いやいやご苦労さん。これから仕事?頑張ってね。」

おじさんは颯爽と去って行った。真っ白な頭の上に、真っ白な新雪を載せながら。


さて、帰ってきてからもまた大問題である。さあ家でゆっくりしようと車を駐車しようと思えば、我がスペースに悪魔が布団をかけて爆睡しているではないか。このままでは駐車はおろか、家のドアにたどり着くことさえできないだろう。

真夜中までずっと、雪かきである。掘っては飛ばし、掘っては飛ばしを繰り返す。こうした地味でキツい作業がもっとも、我らが悪魔と闘うのに有効な手段である。こんな面倒なことをしてはいるものの、お金をかけて「除雪機」という文明の利器を買えばものの数分で終わる作業には違いないのだが・・・。数十万もするそんな高級品を当方が持ち合わせているはずもない。ただ自分の持っているもので闘うしかないのである。

「だってばよう!ちくしょう!」虚しい独り言が雪明りの中に吸い込まれてゆく。

「こんばんは。」ふいに後ろから声がした。

見ると、いつもは目も合わせることもないはずの、はす向かいに住むおばさんであった。

「大変だねえ。これ、飲んで。」

なんと、おばさんはこの当方のために、わざわざココアを買ってきてくれたのである。

「ああ、いえホントに、何というか、もう・・・」

こういう時に限って当方の舌はまるで役に立たない。感謝の言葉を言う前に、感極まってまるで何も出てこなくなってしまうのである。気の利いた一言も言えたものではない。

「ね、なんかあんたみたいな若いモンが一生懸命雪かきをしているのを見ると、なんか嬉しくなっちゃった。おせっかいごめんね。」

そして、おばさんは帰っていった。「雪、ここに捨てていいからね。」と提示してくれたのは、なんと彼女の家の真ん前だった。その傍らには赤く光る除雪機がスタンバイしてあった。

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どうしてこんな季節に思い出したのだろう。誰も彼もが元気いっぱいに過ごすこの夏という季節に適応できない自分は、知らず知らずのうちにあのじめじめした寒い季節が恋しくなっているのかもしれない。黄昏時に流れる涼風が、もうすぐ訪れる白い悪魔の足音を運んでくる。もっとも、運んでくるのは悪魔だけではない。缶ココア一個分のあたたかさも、一緒に運んできてくれる。



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