見出し画像

【小説】ピースライト

 遠目からは気が付かなかったのだが、私の行く先から歩いてくる中年サラリーマンの、だらりと下げた右手の指先には、火の付いた煙草が挟まれていた。サラリーマンは私とすれ違う少し手前で右手を口元へ持って行き煙草くわえ、ちょうど真横に来る瞬間に煙をはき出した。それは喫煙者が悪者のような扱いを受けて一斉に排除されていく昨今で、久々に感じた煙草の煙であった。苦々しい臭いがサラリーマンから生えた尻尾のように伸び、私の横を通り過ぎてもなお、その臭いは鼻に残った。

 私は非喫煙者であるが、煙草の煙や臭いに対してどうこう言う人間ではなかった。それは父親が喫煙者であり、ヘビースモーカーであったことが大きな要因としてある。物心ついた頃から父親の煙草はある種身近なものとして認知してきた。分煙など気にせず家族の揃う居間でテレビを見ながら煙草を吸う父親の姿を、スーパーの駐車場で運転席の窓から腕を出して煙草の灰を落としている姿を、私は日常の風景として見てきた。だが、いたるところが禁煙となって喫煙者が一掃されていき、「清潔」な空間が多くなった今では、私にとって煙草の煙や臭いは嫌悪する対象となってしまっていた。遠ざかっていくサラリーマンの背中を見ながら、私は父親の吸っていた煙草の銘柄が「ピースライト」であることを思い出した。そして懐かしい記憶がよみがえってきたのだった。

 それはまだタスポもなく、誰もが自由に自動販売機で煙草を買える時代のことだ。当時小学校低学年だった私は、よく父親からおつかいと称して近所の自動販売機まで煙草を買いに行かされていた。私の家の前を通る細い村道を南の方へ進んでいくと、村の大動脈とも言える県道に合流する。その合流した県道を少し行った先の左手に、道路に面して飲み物の自動販売機が並んでいる一角があり、そこに煙草の自動販売機もあった。子供の足でも往復で十分もかからない為、おつかいには持って来いの場所であった。父親は使い古した革製の小銭入れから二六〇円を取り出して私の手に握らせると、「もう分かってるよな」と言って私を送り出した。

 これで何度目かのおつかいになる私は、父親の吸う煙草の銘柄が「ピースライト」だと分かっていた。しかしそれはパッケージの柄を覚えているということに過ぎなかった。まだ英語も読めない子供だ、箱に書かれた「Peace」や「LIGHTS」と言った文字はあくまでデザインの模様のような意味合いでしかなく、私の頭の中には、白い面の上方中央に紺色の長方形があり、そこに逆さまになった鳥が葉っぱをくわえている、という大まかなビジュアルでしか捉えることが出来なかったが、買い間違えることは無かった。

 だがどうしてなのか、その日に限って私は買い間違えたのだった。手渡された二六〇円を硬貨投入口へゆっくりと流し込み、上を見上げてピースライトを探す。あの見慣れたパッケージを見つけ、腕を思いっ切り伸ばしてそのボタンを押した。乾いた落下音が鳴り、しゃがみ込んで取り出し口の蓋を持ち上げて手を突っ込む。少し手を左右に動かして煙草を探し、手を引き抜くと、その箱は見たことのないパッケージのものだった。確かに逆さまになった鳥と「P」から始まる見覚えのある英語は書かれているが、どうも配色が逆なのである。その箱は紺色の面に白の長方形があるものだった。

 これは今改めて調べて分かったことなのだが、私がその時買い間違えた煙草は「ピースミディアム」という銘柄だった。ピースライトと同じデザインで、ただ配色だけが違っていた。「LIGHTS」と書かれている部分には「MIDIUM」とあるが、小学生の私には読み取れるわけもなかった。

 手渡されたお金は煙草一箱ぶんしかなく、自動販売機に対して買い間違えたから取り替えてくれと言っても仕方がない。私は途方に暮れてしまった。ここまま帰ったら何を言われるだろうか。恐らく怒られるのだろう。もしかしたら同じ「P」から始まる煙草なのだからそこに対した差はなく、大丈夫だと言ってもらえるかもしれない。自動販売機を見上げ、欲しかったピースライトを眺めていると、私に声をかけてくる者がいた。

「おめぇ、夏川んとこの坊主だろ。なんだもう煙草吸うのか」

 振り返るとそこには薄汚れた作業着を着た初老の男がいた。浅黒く日焼けした顔に、やや飛び出た両目で私をじっと見てくる。男はズボンのポケットに右手を入れ、直接硬貨を取り出し手のひらに広げると、左手の人差し指と親指で必要な硬貨だけを選り分けて自動販売機に投入した。男は「7」と書かれた煙草のボタンを押した。

「坊主、煙草取ってくれるか。腰が痛くてしゃがめねえんだ」

 男はそう言って顎をかすかに動かして取り出し口を示す。私は急いで取り出し口から煙草を出し、男に渡した。

「ありがとな。で、さっきから突っ立って何してたんだ?」

 男は煙草を包んでいた薄いビニールの合わせ目を爪で引っ搔き、太い指先で無理矢理はがした。ビニールを硬貨の入っていたポケットに突っ込み、蓋を開けて煙草を一本取り出してくわえ、胸ポケットからライターを出すと火を付けて吸った。

 私はこの男のことを今まで見たことがなかった。狭い田舎の地区のことだ、隣近所に住む人の顔と、その人がどこの家に住んでるかくらいは、子供の私にも理解出来た。逆に地区の人間も、私が夏川家の長男、良也だということは分かっていた。この初老の男の顔は今までこの近所では見かけたことがなかった。私にとって部外者のような存在であるこの男は、なぜか私のことを知っていた。私は怖くなってその場から逃げようとしたが、男は私の腕を掴み、「ジュース買ってやるから」と言って、無理矢理引き留めた。

 自動販売機の並ぶ裏には三人掛けの短いベンチと灰皿スタンドがあり、私はベンチに座って男から買ってもらったコーラを飲んでいた。男は横に座って煙草を吸っている。コーラを買ってもらう時、私は父親のおつかいで煙草を買いに来たが、言われたものと違うものを買ってしまったと話した。本当はこっちの煙草が欲しかったのだとピースライトを指さした。男は子供に煙草なんか買わせるもんじゃねえなと言って笑った。男は一本を吸い終わると灰皿に吸い殻を投げ入れ、再び胸ポケットから箱を出して一本抜き出し、また吸い始めた。私は素朴な疑問として、煙草って美味しいの? と聞いた。そう言えば父親にもこんなことは聞いたことがなかった。男は胸ポケットから新しい煙草を一本取り出すと、秘密にしといてやるから吸ってみろと言って私にくわえさせた。

 今まで父親の真似をして、お菓子を煙草に見立ててくわえて遊んでいたことはあった。そのたび父親は「大人になったらな」と言って私をたしなめた。それは未成年は吸ってはいけない、という具体的なことではなく、ただ漠然と煙草は大人のものであり、自分にはまだ早いと言った感覚でしかなかった。小学校一年生が六年生の教科書を欲しがり、先生から六年生になったらね、と言われるようなものだ。しかし今私の口元には本物の煙草がくわえられている。この今の自分と、その自分に見合わないものの、埋めようのない距離感が急に縮まっていく感覚に理解が追い付かないでいると、男は何も言わず煙草に火を付け、吸ってみろと言った。私は無意識的に煙を吸った。熱い煙が私の喉を直接侵し、さらに肺へと進んでいく。呼吸が出来なくなり、眠気のようなものが襲ってくると、目の前が真っ暗になった。

 遠くから聞こえていた私の名前を呼ぶ声が次第に大きくなり、身体が激しく揺さぶられている感覚に目を覚ますと、そこには父親がいた。どうやらいつまで経ってもおつかいから帰って来ないのを心配して見に来たのだという。するとベンチに横になって寝ている私を見つけたのだった。ベンチの下にはコーラの缶が落ちていて、中身が地面にこぼれている。いまだに頭がクラクラし、上手く起き上がれない。父親の胸ポケットを見ると新しいピースライトの箱が入っていた。そして今までのことを思い出し、買い間違えた煙草の箱を探したがどこにも見当たらなかった。

「まったく、煙草買いに行かせたのに勝手にジュース買って飲むし、眠って帰って来ないし。お父さん自分で買いに来ちゃったよ」

 そう言ってまだ意識がうつろになっている私を抱き起し、背中に負ぶってくれた。家に帰る道中、あの初老の男のことも、煙草を吸って気絶したことも、話してみたくなったが、黙っていようと思った。

 歩き煙草のサラリーマンとすれ違った日の夕方、私はコンビニに立ち寄ってピースライトを買った。あの頃とはパッケージが変わっていて、仰々しい注意書きがされていた。私はそれをワイシャツの胸ポケットにしまったが、吸うのはまだ先のことになりそうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?