街路樹の剪定だってマクロとミクロ
どういう理由にせよ、樹が切られるということはなんだか切ない。
道路が大樹をよけて曲がっていたり、振り分けられていたりすると「樹を守った」という多くのヒトの感情を感じられてじんわりする。曲がった道路を利用する方は不便でもあるのだろうし、効率的ではないのだが。
散歩していてときどき出会う、大きく育った立派な街路樹は、その街の歴史や住民の生活を想像させるフックになる。先日そのような街路樹に「この樹は伐採します」という紙が貼られているのを見た。うわあ。こんな立派な樹、どこかの神社仏閣の柱にでもする気か。落ち葉が多いとか、電線にかかるとか、問題があったのかなあ。その路の樹にはみんな貼り紙があったので、道路を拡大するのかもしれない。
街路樹というもの、ヒトの都合で植えて切る、そういうものかもしれませんが。家畜に対する動物愛護に近い感情なのかもしれませんが。
なーんとなくしゅんとする散歩となった。でもそれが暮らしやすい社会を作るためなのだとしたら、飲み込むべきものなのだろう。
そういう、暮らしやすい社会を作るために、我々は仕事をするわけだ。どんな仕事でも自分のためというより、社会のため、顔を合わさないヒトのため。よりよく、より喜ばれるように。そのベクトルが個人の感情と違う方を向いているとしても、視点は違えど善意と前向きな力に支えられているはずだ。その要素が薄いと、多くのヒトには受け入れられずメジャーにはなりえない。
だから、樹を切るのは「かわいそー」であっても、その先にきっと便利な生活があるんだ。性善説。
毎年晩秋に、みどりから黄色、オレンジ、赤、ワインカラーと、グラデーションが見事な紅葉を見せる街路樹がある。モミジバフウ、らしい。樹によってさまざまな色に染まって連なるその景色は誇らしくもあり、100メートル程度の街路を歩くことは、通勤時に仕事の苦痛を一瞬忘れさせてくれる「小さな幸せ」のひとつだった。だった、過去形。
2024年は季節が早回しだった。仕事で巻くのはありがたいが、季節が巻くのはちょーっとなあ、だ。旬がずれこんだり着る服が時期に合わなかったり。その影響は街路樹にもあって、紅葉の具合が例年とは違っていた。妙に早い時期にきざしがあり、そこからごくごくゆっくりと紅葉が進んだ。そのためか、それぞれの樹の色がさらにバラバラになった。来週再来週くらいには紅葉らしい景色になっていくかな、という、そのころ。
「枝を切ってる!」という家族からのLINEが届いた。画像を拡大すると、リフト付きの重機が映り込んでいる。これはあれだ、毎年電飾の電線を巻き付けるヤツとは別だ。切ってるんだ。これから紅葉が見事になって、みんなが交差点の信号待ちのときに写真を撮るのに。その前に、切っちゃうんだ。確かに剪定のセオリーの時期ではある。でも季節巻いてるぞ今年は。どうするんだそのカラフルな枝は、ものすごく豪華な生け花みたいな枝は。回収車に入れるのか、そうか。そうだよな。街路樹のためにも、周辺環境のためにも、必要なことなんだよな。ヒトの感情なんてもっと大きな益の前にはあまりにちっぽけだよなああそうだああそのとおり。
次にどのような仕事をして、社会に貢献するか。根本的なところを見つめなおしていると、結局誰にとってもハッピーな仕事なんてないよな、という当たり前の結論が鮮やかになっていく。民主主義の多数決がよいのか、小さな個人の幸せだけを求めるのか。
マクロとミクロ、結局いつもここにぶちあったって正解なんか見つからない。