#328 幸せは「なる」のではなく「見つける」

澤円さんのVoicy澤円の深夜の福音ラジオ 【第434回】「幸福になる人の特徴についていい記事があった。」を聴いたことのアウトプット。
澤さんが見つけた安達裕哉さんのブログにあった「いくら頑張っても幸福になれない理由」を紹介した話。

そのブログです。

先日、福岡に出張に行ったとき、あるアントレプレナーの方と、「人の幸福」についての話になった。

背景を話すと、私は常日頃「会社は、人が幸福になるための、社会装置に過ぎない」と思っている。
だから、経営者に「幸福の条件」を尋ねるのが常なのだ。

「やはり、稼いでこそ、という感じですかね?」
と私は意地悪くカマをかけた。

起業家は「何よりも金」と、堂々という人は少ない。
建前は「世のため、人のため、世界を変えるため」なんてことを言う。

だがその実、心の中では、「金、自己顕示、モテ」を、ひたすら望む人物は少なくない。
ただ、それはそれで、本人が良ければ、良いとは思う。
が、それは隠せない。
言動や、SNSを見れば、すぐに分かる。

だが、彼は軽くスルーする。
「安達さん、いくらお金を持っても、名誉を手に入れても、幸福にはなれないですよ。」

「まあ、そうでしょうね」と私も頷いた。
思うに、「お金」や「名誉」は不安を消すことはできるが、幸福を作り出すことはできない。

私は聞いた。
「では、どうしたら人は幸福になれると思っていますか?」

彼は酒をあおり、こう言った。
「わたしね、ヨーロッパを見てきたんですよ。」
「ヨーロッパ……? なぜですか?」
「彼らのほうが、幸福についてよく知っているからです。金儲けの知恵ではなく、幸せになるための知恵が受け継がれている世界なんですよ、ヨーロッパは。成熟している社会なんです。」
「ほう……。」
「あと、ヨーロッパってのは、外食や贅沢品が恐ろしく高いんですよ。だから「消費」を通じて幸福になろうとしても、よほどの金持ちじゃないと駄目なんです。」
「知りませんでした。」
「で、貧乏な庶民は何をしてるかってことです。」
「何してるんですか?」
「公園でワインを少しのんで、踊って、市場で食材を買って、少し料理して、みんなでくつろいでるだけです。ね、お金かからないでしょう? でも、十分みんな幸せを感じているんですよ。」

私は聞いた。
「一部の人だけでは?」
「もちろん、全員ではないです。ただ、日本人と比べると、「お金なんかなくても十分幸福だよ」という人は、遥かに多い印象ですね。」
「なるほど……」

ヨーロッパを長いこと観てきた、彼の言うことには強い説得があった。
「なんで彼らは、お金がなくても、幸福を感じやすいんですかね?」

彼は笑っていった。
「簡単ですよ。彼らは日本人よりも、日常生活の解像度が高いんです。」
「解像度……?」
「要するに、日常の些細なことにも幸せを感じることができる、ってことです。」
「例えば?」
「例えば、布団で寝られるだけで「いやー、俺って凄い幸福だよな」と思うこと。」
「……」
「卵かけご飯を食べて、「こんな美味しいものを食べられるなんて、なんて俺は幸福なんだ」と思うこと。」

正直、私は「どこかで聞いた話だな」と思った。
そこで「要するに、幸福というのは、感じ方一つ、ってことですよね。」と言った。

すると彼は、「そうじゃないです。」ときっぱりという。
よくわからない。
「そうじゃないんです。もっと視点を高くしてください。私は「卵かけご飯を食べることに幸福を感じなさい」と言っているんじゃないですよ。」

私は混乱した。
「では、どういうことなのですか?」
「「「卵かけご飯を食べることが幸福」と、自信を持って言える自分がいる」ことこそが、幸福なんです。」
「???」
「わかりやすく言うと、幸福な人ってのは、「自分がいかなる状況でも「幸福である」と信じる力を持っている人」のことなんです。」

ああ、なるほど。
たしかに、そうかもしれない。
つまり、彼の言葉の裏を返せば、不幸な人とは「私には足りないものがあり、そのせいで幸福になれない、と思っている人」のことだと言える。

仕事がないから、不幸だ。
お金がないから、不幸だ。
モテないから、不幸だ。

だから、「幸せ」は、「なろう」=「手に入れよう」とすると、とても苦しくなる。
なぜなら、そんな簡単に望むものは手に入らないから。
「持っていないものを手に入れるのが幸福」と思っていたら、残念ながら大体の場合、一生不幸なのだ。
だいたい、人間の欲は限りがない。何かを手に入れた瞬間、次のものが欲しくなる。

ところが、彼のいう「幸福な人」は、全く異なる。

日常生活の解像度を上げて、「こんなことに幸せを感じられる俺って、幸福」といえるのが、幸福な人なのだ。
何にも「ゆとり」を感じる能力を有する人、と言ってもよいのかもしれない。

彼はこう言った。
「いくら頑張っても幸福になれない理由は、幸福の本質が「なる」ではなく「見つける」だからですよ。」
「なるほど」
「競争して、良い暮らしを手に入れよう、では、幸せになれない。良くも悪しくも、ヨーロッパは階級が固定されてますからね。だからこんな考え方が発達したんでしょう。良いか悪いかは別として、もうじき、日本もそうなりますよ。」

彼の言うことに100%賛同できるかといえば、そうではない部分もある。
だが、彼の言ったことは一理あった。

要するに、幸福とは高度な「自律」なのだ。
そして、ヨーロッパでは「自律」の知恵が、庶民の間に受け継がれている。

いまの日本は停滞期に入り、多くの人が不幸を感じている。
だが、停滞期には、停滞期なりの「幸福」の感じ方がある。

人と比べない、わきまえる、日常の些細なことに幸せを見出す、消費よりも創り出す……
一足先に停滞期に入ったヨーロッパでは、そのような日常の知恵が発達したのかもしれない。

それは、「幸せになるための一般教養」と言うべきか。
そう感じた。

Books&Apps 安達裕哉
いくら頑張っても幸福になれない理由は、幸福の本質が「なる」ではなく「見つける」だから。

澤さんは
「できない理由であったり、自分が不幸と感じる理由をやたらとあげるのが上手い人がいるわけですけれど、それは自分自身を幸せから、どんどんどんどん遠のかせるマインドセットだと思う。
何かに対して、これは幸せなんじゃないか、ハッピーなんじゃないか、と感じられるようなアンテナがすごく大事だなぁと思う。」

とおっしゃっていました。

澤さんのコメントと、このアントレプレナーの方のおっしゃった「幸福な人ってのは、「自分がいかなる状況でも「幸福である」と信じる力を持っている人」」
には共感しました。
「仕事がないから、不幸だ。」⇒仕事があるようになる
「お金がないから、不幸だ。」⇒お金持ちになる
「モテないから、不幸だ。」⇒モテるようになる
のように、無いものが得られたとしても、もっと欲しくなると思います。

無いものを得ることにフォーカスするのではなく、日々の生活の中で自然と幸せを感じられれば、確実に幸福度は増すでしょう。
テレビやネットでも、貧しくても幸福度が高い国が紹介されており、まさにそういうことだと思います。

私は、5年以上、毎日その日のよかったこと3つをスマホアプリでメモしていました。
スマホが壊れたのを機に、そのアプリは使わなくなりましたが、5年以上も続けていたせいか、今でも寝る前にその日のよかったこと3つがすぐに思いつきます。
澤さんのおっしゃるアンテナが鍛えられたのか、私は比較的幸せだと感じています。

ぼんやり生きてきて、自分でキャリアを切り開けていない人生ではありますが、今は幸せと思えるアンテナがあるのは、すごくよいことだと今日気づけました。


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